• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年9月24日主日礼拝

説教題:キリスト者の問題解決法 聖書箇所:コリントの信徒への手紙一6章1-11節

◆信仰のない人々に訴え出てはならない  6:1 あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。 6:2 あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。 6:3 わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。 6:4 それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。 6:5 あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。 6:6 兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。 6:7 そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。 6:8 それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。 6:9 正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、 6:10 泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。 6:11 あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。

ハレルヤ!9月の第四主日を迎えました。私たちの教会では、コリントの信徒への手紙一を講解で学んでいて、今日はその11回目です。前回のおさらいから始めましょう。5章1-13節から「教会を守るために」と題し三つの事を中心にお話をしました。①厳しい処罰が必要な場合がある、②個人の問題は教会全体の問題となり得る、③愛すればこその厳しい処置でした。今日は続く6章1-11節を通し、「キリスト者の問題解決法」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。パウロはこの手紙で先ず、分派、派閥の問題について述べ、次に不道徳、不品行の問題について語りましたが、今日の箇所で信者間の争いの解決、訴訟について語ります。当時、ギリシャ人は論争好きで裁判好きでもありました。どんな些細なことでも裁判に訴えていました。ですから信仰を持ったコリントの人の中にも、こうした民族性は直ぐには抜けなかったのです。今日の訴訟大国と言われるアメリカのようなものだったのです。

①教会内の問題は内部で解決する

1節を見てみましょう。6:1 あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。信者間に争いがあった場合にキリスト者としてどうあるべきかをパウロは問うています。「聖なる者たち」、「正しくない人々」とあります。「聖なる者」は口語訳と新改訳では「聖徒」でキリスト者の意味です。「正しくない人々」とは未信者のことで、狭い意味では異邦人の法廷の人たちとも言えます。信徒同士の争いであるのだから、お互いに相譲って和解すべきなのです。主イエスにある兄弟姉妹なので話し合って円満に解決すべきことなのです。それなのにこの世の法廷に訴えるとはキリスト者として決して正しくないことなのです。2節を見てみましょう。6:2 あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。教会内の問題は教会内で解決をするということがパウロの趣旨ですが、その理由が「聖なる者たちが世を裁く」からです。それは、キリスト者には世が改まった時に世を審判する権能が与えられているのです。マタイによる福音書19章28節に記されています。19:28 イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。開きませんが同様な御言葉がルカによる福音書22章30節、ヨハネの黙示録20章4節に記されています。後ほど読まれてください。このような光栄と特権を与えられていり信者が、教会内の「ささいな事件」すら解決しようとせずに、この世の力に頼ろうとしている人たちの態度を改めるよう勧告をしているのです。3節を見てみましょう。6:3 わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。「天使たちさえ裁く者」とあります。天使と聞くと私たち人間よりも優れている存在と思うかもしれませんが、ヘブライ人への手紙1章14節を開いてみましょう。 1:14 天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。天使とは元々、「奉仕する霊」、人間に仕える存在なのです。ですから、私たちはやがてこの世ばかりではなく天使さえも裁く者なのです。「日常の生活にかかわる事」は2節の「ささいな事件」を言い換えたものです。キリスト者にはこのような権能が与えられているにだから「日常の生活にかかわる事」「ささいな事件」など言うまでもないのです。「日常の生活にかかわる事」「ささいな事件」が何なのかの記述はありませんが、先の9,10節を見ると金銭的な問題もあったと考えられます。4節を見てみましょう。6:4 それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。「教会では疎んじられている人たち」とはコリントの教会員の中で疎外されている人の意味ではありません。教会外、この世の未信者の裁判官の意味です。信者間の問題、教会内の問題はこの世の未信者などに任せず、自分たちで解決せよと繰り返し語ります。5節を見てみましょう。6:5 あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。「恥じ入らせるために」とあります。冒頭にお話ししましたが、当時、ギリシャ人はとても訴訟好きでした。些細なことでもすぐに法廷に持ち出したのです。一方、ユダヤ人は全く異なっていました。既にディアスポラとして全世界に散って生活していましたが、内輪の事件をその土地の法廷に持ち込むことは決してありませんでした。仲間内で問題を解決していたのです。パウロはユダヤ人ですので、こうした慣習に馴染んでいたと思います。また、パウロはユダヤ社会と同様にキリスト教会も共同体と考えていたのです。キリスト教会は信仰の共同体であり、霊の共同体であり、礼拝の共同体で、愛の共同体なのです。このような共同体の問題を一体全体、なぜこの世の中に持ち出す必要があるのかと恥を知れというのです。「兄弟を仲裁できるような知恵のある者」とありますが、争いごとを解決するためには適切な仲裁の労をとる人物が必要です。この仲裁についてインマヌエル行徳駅前キリスト教会協力牧師の竿代照夫先生は著書の中でこのように語られています。そのまま引用します。「私の牧会していた教会で、信者同士の金銭賃借が元で訴訟事件が起きかけました。二人の長老ととともに牧師をして調停に当たった私は、どの面から見ても借主の方が不誠実で、何度も返済の約束を繰り返しては破っている事実を見ました。借主はこの聖書の教えを熟知していて、貸主は法的手段には訴えまいとたかをくくっていたのです。最終的に私は、借主を教会として懲戒する含みで、貸主の訴訟提起を了承しました。幸い、借主は教会指導者と貸主の毅然とした態度をみて悔い改め、返済を実行しました。原則の実行に当たっては、多くの祈り、カウンセリング、実際的知恵が要求されますが、避けてはならない問題です。同時に、争いを起こさないために、安易な貸し借りは慎むことが最も大切でしょう。もっと根本的な解決は、信仰者が福音によって救われた自分の立場を再自覚することです。」6節を見てみましょう。6:6 兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。「しかも信仰のない人々の前で」とあります。キリスト者は世の未信者に言行を通して証をするものです。自分たちの醜態の解決を不信者に委ねるなどこれでは全く証にはなりません。今日、先ず覚えて頂きたいことは教会内の問題は内部で解決するということです。

②良心を目覚めさせ正しい道に立ち返えらせる

7,8節を見てみましょう。6:7 そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。 6:8 それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。「裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負け」とありますが、信者間の問題をこの世の者に裁いてもらうことは恥以外の何物でもありません。教会員間の不和、不義、不実を天下に公表するものです。ですから、「裁判ざたがあること自体」が教会員一同の「負け」なのです。法廷での判決の勝ち負けという以前に負けているのです。キリスト者としての霊的な負けがそこにあるからです。「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。 6:8 それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。」とあります。明治から昭和の初期に活躍した社会事業家で信徒伝道者の本間俊平(ほんましゅんぺい、1873年(明治6年)8月15日 – 1948年(昭和23年)8月13日)という方がいます。山口県の秋吉台(現・美祢市)の大理石採掘場で、不良少年を含む青少年と共同生活を送りながら若者たちの感化(育成事業)に携わり「秋吉台の聖者」と呼ばれていました。今日における山口県の主要産業の一つである大理石産業を興した一人としても知られています。ある日、一人の男性が何か気に入らないことがあり、本間氏の奥さんに出刃包丁で切りかかった。腕を斬られた奥さんは、傷口を手で押さえながら、讃美歌87番「めぐみの光は」を歌ったのです。「めぐみのひかりは わがゆきなやむ やみ路を照らせり 神は愛なり」です。やがて、騒ぎを聞きつけてきた人々が集まり、その男を取り押さえたところに本間氏がやってきて、男に「家内を病院に連れて行きなさい」と言ったのです。奥さんと本間氏の態度は切りつけた男を恐縮感激させるのに十分でした。男は奥さんを病院に連れて行き戻った後に、心から悔い改めて神を信じる者となったのです。無抵抗という抵抗は決して意気地のない沈黙ではありません。有効な抵抗手段なのです。それによって良心が目覚め、正しい道に立ち返る結果となるのです。そのことをパウロは「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。」と言っているのです。主イエスも同じことを語られています。マタイによる福音書5章38-42節を見てみましょう。5:38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。 5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 5:40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。 5:41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。 5:42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」キリストのこの言葉はパウロが語る「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。」と共通したものがあります。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」とは意気地がないように見えますが、そうではありません。抵抗の手段です。無抵抗という抵抗なのです。相手の良心を目覚めさせ正しい道に立ち返る手段を取りなさいと言っているのです。例え裁判によって白黒ついたとしてもそれで悔い改めて神に立ち帰るものではないのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは良心を目覚めさせ正しい道に立ち返えらせるということです。

③旧態依然とした生活に甘んじない

9,10節を見てみましょう。6:9 正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、 6:10 泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。「正しくない者」とは前節の内容を受けています。そしてここでは10個の不義が数えられています。「みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、 6:10 泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者」です。この諸悪のリストはこの手紙の5章11節(教会内で付き合ってはいけない人)似ています。比べてみましょう。 5:11 わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。ほとんど同じですが、「姦通する者、男娼、男色をする者」が付け加えられています。コリントの教会がいかに退廃的であり、そういった環境の中で生まれた教会もその影響を受けやすかったのです。こうしたことを行う「正しくない者」「決して神の国を受け継ぐことができません。」とパウロは断言をするのです。11節を見てみましょう。6:11 あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。「あなたがたの中にはそのような者もいました。」とあります。10個の不義は主イエス・キリストと出会う前の古い人の行いであることを伝えています。その理由は「しかし」以下です。三つの事が記されています。「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ」とありますが、洗礼を受けたことです。受洗です。「聖なる者とされ」とは神学用語で言う聖化です。「義とされています」とは神学用語で言う義認です。厳密に言えば、聖化と義認は洗礼を受ける前にイエスキリストを救い主と受け入れて告白をしたときに起こります。では、なぜ洗礼を受けるのでしょうか。洗礼とは信者の生涯に一線を画することなのです。この線に立って過去の罪を清算し、将来は主が望まれる新しい生活を始めることなのです。そのことをいつまでも覚え続けるのです。また、主イエスは洗礼についてこのように述べています。マタイによる福音書28章19,20節を開いてみましょう。 28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」洗礼を受けろとはありませんが、「洗礼を授け」と命じておられます。少なくとも洗礼を受けることは主イエスが望まれていることは間違いがありません。コリントの人々は洗礼を受けました。私たちキリスト者もそうです。主イエスを受け入れた方で洗礼を受けていない方は是非、洗礼を受けて頂きたいと思います。今日、最後に覚えて頂きたいことは旧態依然とした生活に甘んじないということです。

Today’s Takeaways

①教会内の問題は内部で解決する、②良心を目覚めさせ正しい道に立ち返えらせる、③旧態依然とした生活に甘んじない

Thinking Time 

誰の良心をどのように目覚めさせますか