• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2024年1月14日主日礼拝 伏見敏師

説教題: 男尊女卑?~かぶりものから学ぶ聖書の読み方~ 

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一11章2-16節

 礼拝でのかぶり物  11:2 あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。 11:3 ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。 11:4 男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。11:5 女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。 11:6 女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。 11:7 男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。 11:8 というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、 11:9 男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。11:10 だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。 11:11 いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。 11:12 それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。1:13 自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。 11:14 -15男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。 11:16 この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。

ハレルヤ!1月の第二主日を迎えました。コリントの信徒への手紙一を講解で学んでおり、今日はその22回目です。では、いつもように前回のおさらいから始めましょう。前回は、10章23節-11章1節から「全ては神の栄光のために」と題し三つの事を中心にお話をしました。全ては神のもの、配慮すべき方を見逃さない、全ては神の栄光のためでした。先ず、パウロのコリント教会の問題に対する基本的な考え方を確認してみましょう。コリント教会の中には、主イエスに在って全てが許されていると言い、何でもかんでもし、自由の意味を履き違えている人たちがいました。そこで、パウロは誤解や躓きを与えないため自分自身でキリストの愛の配慮に基づいて行動し、コリントの人たちにもそのことを勧めています。パウロは8-10章で偶像の問題について詳しく語ってきましたが、問題はそれだけではありません。今日の箇所では婦人の習慣について語ります。具体的には礼拝においてかぶりものを付けない女性の問題です。今日は続く11章2-16節を通して、「男尊女卑?~かぶりものから学ぶ聖書の読み方~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①当時の実情や風習を考慮

2節から順番に見て参りましょう。11:2 あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。「伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います」とあります。意訳すれば「あなたたちにはとても良いところがあるのですが、ここだけは注意した方が良いですよ」と言えます。本題に入る前にパウロは、コリント教会が教会の運営についてパウロの教えを良く守っていることを褒めます。何事でもいきなり本題に入らず、クッションをいれると勧告や注意もすんなりと受け入れられるものなのです。実にパウロは配慮に長けています。3節を見てみましょう。11:3 ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。「すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。」とあります。神、キリスト、男、女とありますが、これは創造の秩序であり、男性の女性に対する社会的な優位性を語っているわけではありません。男女は神の前には平等です。あくまでも一般的な男女の意味で夫婦の意味ではありません。また、「すべての男」とは人類を意味しています。古くは英語のmanが男の意味に加えて人類の意味でも使われていたことと同じです。「頭」と訳された原語には源という意味がありますので、「女の源は男」と解釈ができ、創世記に記された創造の順番と一致します。創世記2章21,22節を開いて確認をしてみましょう。 2:21 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。 2:22 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、4節を見てみましょう。11:4 男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。パウロは前節で創造の秩序を取り上げ4節から礼拝の秩序について語ります。ここからが本題と言えます。「頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります」ありますが、頭にかぶりものをするという風習がいつどのようにして始まったのかということについては不明です。ただ、当時、ユダヤ人とローマ人は礼拝に出席するときにかぶり物をしていました。しかし、コリント人を含めギリシャ人の男性は頭にかぶり物をせずに礼拝に出席していたのです。「頭」には優れた者、上に立つもの、一つの共同体の長といった意味がありますので、頭にかぶり物をすることは人誰かの下になると思われていたようです。5,6節を見てみましょう。1:5 女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。11:6 女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。5節に「頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。」とあります。当時、コリントの売春婦は頭にかぶりものをしていませんでした。6節に「髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいこと」とあります。髪を剃ることとは恥ずべき行為であり、また、罪を犯した者を意味します。ですから、女性がかぶりものをしなかったり、髪を剃ったりするということは売春婦や犯罪者とみなされてしまうのです。しかし、コリント教会の女性の中にはキリストに在る自由の意味を拡大解釈し、頭に被り物をしない人たちがいたのです。今日、この箇所を読むときにたかが、かぶりのことで大騒ぎする必要があるのかと思うかもしれませんが、当時の実情や風習を考慮しなくてはならないのです。当時はコリント教会を含めギリシャの諸教会では女性は頭にかぶりものをして礼拝に出席していたという歴史的事実があったのです。今日でも、この聖書箇所を盾に取り、礼拝の時に女性がかぶり物をしている教会もないわけではありません。例えば、カトリック教会では女性はベールをかぶって礼拝に出席しています。聖書の解釈は聖書でするという大原則がありますが、それに加え歴史的背景も理解する必要があります。学問で言うと歴史神学や聖書地誌です。地誌は地理の地と歴史の史です。今日、先ず覚えて頂きたいことは当時の実情や風習を考慮して聖書を読むということです。

②聖書の教えは男女平等

7-9節を見てみましょう。11:7 男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。 11:8 というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、 11:9 男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。8節に「男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし」とあります。パウロは創世記2章20-23節に記された創造の秩序を取り上げて自説を続けて語ります。9節だけを読むと一見、男尊女卑と思うかもしれません。女は男よりも低いものであり、男に隷属すべきような存在という意味に思えるかもしれません。しかし、パウロには、男尊女卑の考えはありません。女性は男性に隷属するものとは思っていません。11,12節からそのことがわかります。後ほど、説明をします。10節を見てみましょう。1:10 だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。「力の印」とあります。この解釈は難しく諸説あるのですが「誘惑から守るもの」と解釈が出来ます。天使は礼拝に出席していると考えられており、また、昔のラビ(ユダヤ教の教師)の言い伝えに、女の美しい長い髪が天使を誘惑したとありますので、礼拝に出席している天使を誘惑しないためにも女性はかぶり物をするべきと勧めています。 11,12節を見てみましょう。11:11 いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。 11:12 それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。「主においては」とありますが、パウロの男女に対する考えを理解する上で大事な言葉です。パウロは男と女という区分を持っていましたが、「主においては」人格的な上下が無い平等の存在なのです。ガラテヤの信徒への手紙からもパウロが男尊女卑ではなく男女平等の考え方だったことがわかります。3章26-28節を開いてみましょう。3:26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 3:27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。 3:28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。イエスキリストに在っては、男と女との間に人格的な差はありません。上下関係や従属関係もなく、皆ひとつで平等なのです。パウロがコリントの人に送った手紙の内容が男尊女卑でないことがこのガラテヤ書の御言葉によって裏打ちされているのです。キリスト者には男女、奴隷と自由人など一切の差別はありません。イエス・キリストを長子とする兄弟姉妹の関係なのです。このことに感謝と賛美を捧げずにはいられません。創世記2章18節を開いてみましょう。 2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」「助ける者」とありますが、ある神学者は「さしむかいでのある助け手」と解釈をしています。さしむかいの関係とは、人格的に平等の関係を意味し、男と女はお互いに助け合い、力を合わせて生活を営む関係なのです。神は男女がお互いに補完し助け合う関係としてお創りになったのです。このことは結婚生活のみならず、社会生活全体にわたり男女が連携して生きるべきことを意味します。キリストに在って男女に差別はありませんが区別はあります。神は男と女にそれぞれ独自の使命をお与えになりました。男と女は肉体的にその役割のために異なった体をもっているのです。このことについて恩師の野口誠先生は著書の中でキリスト教伝道師、牧師の三橋萬利(かずとし)先生ご夫妻のことを次のように述べています。そのまま引用します。『「北国に駆ける愛」という映画で知られる三橋萬利先生の話を聞いて感銘を受けたことがある。先生は「私は最近偉大な発見をした」と言われた。何かと思って耳をそばだてると、それは「長年連れ添ってきた私の妻が女性」ということであった。私は一瞬何のことか分らなかったが、先生ご夫妻の生き方を知ってその言葉の意味を理解することが出来た。(中略)先生は一級身体障害者で、手足の自由がきかないのである。それで移動する時はいつも奥さんが背中に背負って移動する。そのご夫妻が男と女として神からそれぞれに与えられた使命を十二分に発揮しておられる姿はまさに感動的である。先生が完全に主に仕えることができるようにと、奥さんが女性として神から与えられた使命を完全に果たしている生き生きとした姿を見て、私は「主は本当に生きておられる」という実感を得た。日々福音に生かされて一体となったすばらしい夫婦の姿をご夫妻の中にみたのである。』今日、二番目に覚えて頂きたいことは聖書の教えは男女平等ということです。男女のそれぞれの使命、働きはありますが、男女平等で差別はありません。

③地域的、時代的に限定し解釈する

13節を見てみましょう。11:13 自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。「自分で判断しなさい」とあります。パウロは、物事の是非をコリントの人たちが自ら判断するように訴えています。何が「ふさわしいかどうか」の判断は、コリントの人たちで導き出せるというパウロの確信が読み取れます。14,15節を見てみましょう。11:14 -15男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。男の長い髪と女の長い髪が対比されています。古代のギリシャのスパルタ族や哲人などの一部の例外はありますが、古来より男性は女性より髪の長さが短いものです。この手紙が記された当時のコリントを含めギリシャもそうでした。そのことを「自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。」と語るのです。16節を見てみましょう。11:16 この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。16節は女性のかぶり物についての結論です。「異論を唱えたい人がいるとしても」とあります。以前にもお話しましたがギリシャ人は議論好きとして知られています。たとえパウロと意見が異なる人たちがいたとしても「そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。」と語ります。「わたしたちにも神の教会にも」とありますので、今まで語ってきたことは教会全体に共通したことだと締めくくります。聖書の教えは不変で普遍ですが、コリント教会だけの問題と神の教会全体に適用されることを区別することが求められるのです。今から二千年近く前にパウロがギリシャのコリントの人々に語ったことを、そのまま今日の私たちに当てはまる必要が無い場合があります。かぶり物については地域的、時代的に限定された意味で解釈をすべきなのです。私たちの日本ホーリネス教団も所属している日本福音同盟(JEA)の解釈もそうです。今日、最後に覚えて頂きたいことは地域的、時代的に限定し解釈する場合があるということです。

Today’s Takeaway ①当時の実情や風習を考慮②聖書の教えは男女平等③地域的、時代的に限定し解釈する場合がある

Thinking Time 区別ではなく差別になってしまっていることはありませんか