• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2024年1月21日主日礼拝

説教題:主の晩餐の在り方 聖書箇所:コリントの信徒への手紙一11章17-34節

◆主の晩餐についての指示  11:17 次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。 11:18 まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。 11:19 あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。 11:20 それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。 11:21 なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。 11:22 あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。 ◆主の晩餐の制定 11:23 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、 11:24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 11:25 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 11:26 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。 ◆主の晩餐にあずかるには 11:27 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。 11:28 だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。 11:29 主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。 11:30 そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。 11:31 わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。 11:32 裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。 11:33 わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。 11:34 空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう。

ハレルヤ!1月の第三主日を迎えました。コリントの信徒への手紙一を講解で学んでおり、今日はその23回目です。では、いつもように前回のおさらいから始めましょう。前回は、11章2-16節を通し、「男尊女卑?~かぶりものから学ぶ聖書の読み方~」と題し三つの事を中心にお話をしました。①当時の実情や風習を考慮、②聖書の教えは男女平等、③地域的、時代的に限定し解釈するでした。今日は続く11章17-34を通し、「主の晩餐の在り方」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①神に対する無限の感謝

17節から順番に見て参りましょう。11:17 次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。「ほめるわけにはいきません」とありますが、11章2節では立派だと秘めていました。確認をしてみましょう。11:2 あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。配慮に長けたパウロは、本題に入る前にクッション的に褒めますが、本題に入り「ほめるわけにはいきません」と問題を指摘するのです。その理由が、「あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。」18節以降に具体的な理由が挙げられていますが、せっかく集会に来たのに、信仰が励まされることなく、愛を感じることもなかったのです。これではお世辞でも褒められることではありません。18,19節を見てみましょう。11:18 まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。11:19 あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。褒めることの出来ない理由が「仲間割れ」です。これまで述べてきた分派の問題です。パウロは分派、派閥の問題を再度取り上げていますが、断罪することなく、「ある程度そういうことがあろうかと思います。」、「仲間争いも避けられないかもしれません」とあるように牧会的配慮を示し柔らかく問題を伝えています。20節を見てみましょう。11:20 それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。コリント教会の派閥の問題はパウロが心を痛めたことであり、再三、語ってきました。この分裂を是正するために、「主の晩餐」を取り上げています。「主の晩餐」とはキリストとの結合であり、同時にキリスト者同士を結合させるものだからです。この20節で言う「主の晩餐」とは、今日の愛餐会と聖餐式の二つが含まれています。愛餐とはキリスト者が一緒に食事をすることです。キリスト者同士の交わりです。一方、聖餐とは主イエスの死を記念する大事な礼典です。使徒言行録2章46節には次のように記されています。 2:46 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、初代教会の時代は、愛燦会の中で聖餐式が行われていました。裕福な人たちはご馳走を沢山持参し、貧しい人たちにそれを分け与えていたのです。キリストの犠牲に預かると共に兄弟姉妹の愛を増し加えていたのです。ところが、「一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。」とあるようにコリント教会では、皆が「主の晩餐」を共にすることが困難な状態だったのです。その理由が21節です。11:21 なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。「各自が勝手に自分の分を食べてしまい」とありますように、「主の晩餐」は混乱に陥っていました。全ての人が集まるのを待たずに、各々がかってに食事を食べ始めていたのです。裕福な人たちは、自分たちだけで集まり、ご馳走を自分たちで満喫していたのです。一方、裕福でない方は働かなければならないので、食事に遅れてしまいます。そうするともう食べるものがないのです。「空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。」とある通りですが、これでは「主の晩餐」ではなく自分の晩餐としか言いようがありません。どこにもキリスト者の交わりがありませんし、犠牲の精神や愛のかけらもありません。22節を見てみましょう。11:22 あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。「飲んだり食べたりする家がないのですか。」とあります。パウロは皮肉を込めて、裕福の人たちを非難しています。「何のために集会に来ているのか、単に飲み食いを楽しむだけか。それなら、自分の家ですればよい」と問うているのです。このような振る舞いは「神の教会を見くびり、貧しい人々に恥を」かかせることに他ならないのです。このような冒涜的な態度に「ほめるわけにはいきません。」と断罪します。23-25節を見てみましょう。1:23 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、 11:24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 11:25 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。この箇所は聖餐式で読まれる場合があります。聖餐の設定に関する記事は、他にも、マタイによる福音書26章26-28節、マルコによる福音書14章22-24節、ルカによる福音書22章17-19節にありますが、各書簡には異なっている部分がありますが、これは書かれた目的が異なるからです。聖餐が設定された歴史的事実がむしろこれによって高められていると言ってよいです。ルカによる福音書を開いて見ましょう。ルカ 22:19 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」 22:20 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。23節に「わたし自身、主から受けたものです」ありました。ルカによる福音書と内容が酷似しているためパウロはルカによる福音書から引用したのではないかとの学説もありますが、コリントの信徒への手紙の方が先に記されたとの説もあり、私は後者この立場です。従って、主の御霊から霊感を受け記されたと解釈をしています。「パン」は主の体を象徴します。主イエスがパンを裂いて「これは、あなたがたのためのわたしの体である。」と言われたとき、世の罪を背負って十字架に掛けられるご自分の体を指していたことは言うまでもありません。続いて、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われましたが、単なる記念以上の意味が含まれています。ヨハネによる福音書6章51節を開いてみましょう。 6:51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」「天から降って来た生きたパン」である主イエスを食する。つまり信仰によって主イエスと一体となるのです。25節の「杯」は主イエスが十字架上で流された新しい契約の象徴です。主イエスの血の代価で贖いとられた神と人との契約です。人間側のなんらの功績にも所業によらず、神の恵みによって信じるだけで救われるという契約なのです。ですから、「杯」を飲むたびに、主の苦しみを覚え、感謝するとともに、その血を私たちのものとする信仰が必要なのです。聖餐式とは教会にとって、あってもなくても良いというものではありません。聖餐式を行うことは主イエスの厳かな命令なのです。私たちは聖餐式を行うことによって、神に対する無限の感謝を覚えるのです。詩編111編4節の前半を開いて見ましょう。 111:4 a主は驚くべき御業を記念するよう定められた。私たちが記念するのではありません。主が記念されるのです。主が心にとめられるのです。同様に聖餐式は十字架を思い起こすだけではなく、パンとブドウ液に預かることにより、神の愛が私たちに働きかけてくださることなのです。そのことに感謝をすることを忘れてはならないのです。聖餐は英語でeucharist(ユーカリスト)と言いますが、その語源はギリシャ語「感謝」です。今日、先ず覚えて頂きたいことは聖餐は神に対する無限の感謝ということです。

②再臨を待ち望む喜び          

26節を見てみましょう。11:26 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。「過ぎ越し祭」は年に一回行われていましたが、ある学説によると初代教会時代、聖餐は毎週一回行われていたと言われています。回数が多くなると、形式的になり、本来の意義とそれに伴う感謝が薄れてしまったのですが、聖餐には厳かさと緊張が伴わなければ無ければならないのです。この事を覚えつつ、「主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」主の再臨への希望と主の死の意義とその宣教も聖餐の一部であるとパウロは語るのです。聖餐には三つの喜びがあります。先ず、十字架を思い、死なれた主エスを深く覚える喜びです。次が、復活され、今も生きておられる主イエスと共に食卓に預かる喜びです。そして忘れがちなのですが、再臨を待ち望む喜びです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは聖餐は再臨を待ち望む喜びということです。

③悔い改めをもって聖餐式に臨む

27節を見てみましょう。11:27 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。「ふさわしくないままで」とありますが、ふさわしくない態度や生活です。私は営業職を10 年以上していたことがあります。お客様を訪問するときには服装や態度を整えます。神との聖なる交わりの聖餐において、教会の一致を乱したり、秩序をそこなったりするようなことがあれば、それはまことにふさわしくないことです。キリストの体と血に対する冒涜です。28,29節を見てみましょう。11:28 だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。11:29 主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。主の聖餐に預かろうとするものは「自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。」とパウロは勧告をします。神に裁かれる前に自分自身を吟味し罪に対する深い反省と悔い改めをもって聖餐式に臨むのです。私には、この箇所を読むたびに忘れられない出来ごとがあります。熊本県阿蘇市にある母教会時代のことです。土曜の夕方から職場での集まりがあり、何年かぶりにお酒を飲みました。そんなに飲んだ覚えはないのですが、お酒が弱くなってしまったのか、酷い二日酔いになってしまいました。頭が奈良漬けの状態で自己嫌悪となり聖餐に預からなかったことがあります。聖餐に預からなかったのはこの時だけです。この聖餐を辞退することは一見、良心的なキリスト者のように思われますが、実は不信仰者と少しも変わりがないことを、後日、恩師の尾山令仁先生から次のように習いました。そのまま引用します。「『私は今天国に行けるような心の状態ではありませんから』と言って、天国に行くことを辞退して、地獄に行くつもりですか。そして、私たちが天国に行けるということは、私たちの側の何かによるのではなく、神の憐れみと恵みによるものだということを良く知る必要があります。それと同時に、もしも今ふさわしくない心であれば、今すぐに悔い改めて、主の赦しを頂き、ふさわしい心とされて、聖餐に預からなければなりません。」今日、最後に覚えて頂きたいことは悔い改めをもって聖餐式に臨むということです。

30節を見てみましょう。11:30 そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。「そのため」とあります。コリント教会の中には体の弱い方、病人、既にお亡くなりになった方が多くいたのです。パウロはこれらの事が聖餐においてふさわしくない振る舞いをした結果だと思っていたのです。ある神学者によれば、コリントの人々は、祝福されたパンをもはや主の体と考えていなかったと推論をしていますが、主の晩餐は普通の食事ではなく、信仰によりキリストと一体となることを忘れてはならないのです。31,32節を見てみましょう。11:31 わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。11:32 裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。謙遜謙虚になり自分をよく吟味していれば、主から裁かれることはありません。仮に裁きにあったとしたら、それは私たちを悔い改めに導くための懲らしめなのです。そして、悔い改めるのであれば、世の終わりの時に断罪を受けることはないのです。33,34節を見てみましょう。11:33 わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。 11:34 空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう。パウロは33,34節でこれらの問題を回避するために二つの実践的な方法をかたります。「互いに待ち合」わせること、「空腹の人は、家で食事を済ませ」てから教会に来ることです。初代教会の時代は、愛燦会の中で聖餐式が行われていたのですが、この箇所から愛燦会と聖餐に二分されて行った過程を見ることが出来ます。パウロは霊的に深い洞察力を持ちつつも配慮に長け、実践的な指導者でもありました。「その他のこと」については聖餐にかかわることか、それ以外のことかはわかりません。「わたしがそちらに行ったとき」とあります。パウロはいつコリントに行くとは名言していませんが、心の中では訪問して語り合いたいとの気持ちがあったことが読み取れます。

Today’s Takeaway

①神に対する無限の感謝、②再臨を待ち望む喜び、③悔い改めをもって聖餐式に臨む

Thinking Time

悔い改めるべきことはありませんか