• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2024年1月28日主日礼拝

説教題:「天声聴従」聖書箇所:ヨハネによる福音書3章22-36節 

◆イエスと洗礼者ヨハネ 3:22 その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。 3:23 他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。 3:24 ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。 3:25 ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。 3:26 彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」 3:27 ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。 3:28 わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。 3:29 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。 3:30 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」 ◆天から来られる方 3:31 「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。 3:32 この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。 3:33 その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。 3:34 神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。 3:35 御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。 3:36 御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」

おはようございます。2024年は年明け早々、大地震と航空機の大事故があり、今年はどのような年になるのだろう、日本だけでなく世界中でも、災害が続くのでしょうか。どのような中にあっても主に信頼し、主と共に歩ませていただきたいです。さて前回は、エペソ書から「神様の期待」と題して、神様がこのような時代の中にあって、私たちに望んでおられることは、聖霊に助けられ、みんなで教会を建て上げていくことと、お話しさせていただきました。またヨハネに戻ります。前々回は、ニコデモが夜こっそりとイエス様を訪ねてきたところを見てきました。今朝はそのあとのことで、バプテスマのヨハネとその弟子のやり取りから「天声聴従」と題して、み言葉を取り次がせていただきます。この「天声聴従」は言うまでもありませんが朝日新聞の「天声人語」をもじったものです。

①主を求る

22節から見ていきましょう。3:22 その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。 3:23 他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。 3:24 ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。 3:25 ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。 3:26 彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」以前、バプテスマのヨハネが「私は、その方の履物のひもを解く資格もない」そして「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と証したイエス様と、その弟子たちが、ヨルダン川の向こう側でバプテスマを授け、多くの者がそちらの方に行っていたわけです。すでに見てきたように、バプテスマのヨハネの弟子だった者二人(アンデレともう一人はこの福音書を書いたヨハネだろうと言われている)もイエス様の方に行ってしまったわけです。自分の先生であるヨハネよりも、イエス様の方に多くの人々が行くようになり、バプテスマを授けていることが面白くない、人間的な妬みの心が湧いてきたのです。それに対してヨハネの対応は一貫しています。3:27 ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。 3:28 わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。 3:29 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。 3:30 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」  それを聞いたバプテスマのヨハネは、嫉んでいる弟子を諭します。以前も言ったように、私はキリストではない、キリストを証しするために遣わされた者にすぎないのだ、私が神から与えられた使命は、キリストを指し示すことなのだ。弟子たちにはそのことを何度も語ってきたではないか、それを証しするのはあなた方なのだよ、と諭しています。そして自分は主役ではない、例えて言うならば花婿の介添え人、その働きは、花婿と花嫁の結婚の準備を手伝い、無事に結婚式を執り行い、二人が幸せな結婚生活に入っていくことで任務が終わり喜びに満たされるわけです。よくクリスチャンのことをキリストの花嫁と言いますが、花婿であるキリストと、花嫁である信者全体が一緒になることが、介添え人の喜びです。だから多くの人々がキリストのところに行くことは、バプテスマのヨハネにとっては喜びなのだと伝えました。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」私はメシヤを指し示す声にすぎない。声は消え去るが、あの方キリストは永遠に栄えると語りました。バプテスマのヨハネは、神からゆだねられた使命にしっかりと立っていたので、弟子の言葉に揺り動かされることはありませんでした。素晴らしいですね。バプテスマのヨハネは女から生まれた者の中で最も偉大であると、イエス様が言われた通りの人物です(マタイ11:11)。弟子たちにとっては嫉みを起こす大きな問題も、ヨハネにとっては全く問題ではなかったのです。むしろ多くの人々がイエス様のところに行くことは自分の働きの成功を意味するわけで、喜びなのです。それは常に神を見ていたので、肉の思いに支配されなかった。ぶれない信仰です。今朝はこの弟子たちの嫉妬から学ばせていただきたいと思います。かつてこのような肉の思いに振り回されてきたことはなかったでしょうか。肉の思いと言っても嫉みだけではありません、いろいろありますね。私はたびたび悔い改めました。肉の思いとは、アダムまで遡りますが、神に逆らった人間に罪が入り、神から離れた結果、神の恵みをいただくことができない、自分勝手な自己中心な思いであり、当然悪い結果を生みます。厄介なもので、人の心の深くに湧いてきて、やがて大きな問題を引き起こす火種となります。赦せない思いや憎しみが大きな戦争になっていくこともあるわけです。小さなうちに解決する必要があります。それにしてもバプテスマのヨハネの弟子たちですら、自分の先生よりもイエス様の方が人気があると言って嫉むような状況でした。それを言えば、イエス様が十字架につけられたのも、結局は当時の宗教指導者、祭司や律法学者たちのイエス様に対する妬みや恐れからだったわけですから、侮れません。自分の中にある肉の思いはガンのようなものでやがてわが身を滅ぼしてしまうものです。解決の道を見ていきましょう。ガラテヤの信徒への手紙5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、 5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 5:21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。恐ろしいことに、これが神から離れてしまった人間の行き着くところなのです。人間はみな神様から離れてしまったアダムの子孫であり、生まれながら肉の性質を持った罪人なのだと聖書は語ります。しかしありがたいことに、そのような私たちを滅びの道から救い出すために、イエス・キリストが来てくださったのです。先月クリスマスをお祝しました。本当に言葉にならないほどの大きな恵みです。キリストを信じる者はみな赦され、この呪いから解放されて神の国を受け継ぐ者とさせていただけるのです。これが福音、グッドニュ-スです。ハレルヤ!本当に感謝です。でもクリスチャンになったからと言って、このような肉の思いが消えたかというとそうではないですね。時には相変わらず心の中に、この苦々しい肉の思いが出てきて苦しみます。葛藤します。嫉みや怒りが出てくる、怒りの中には他人への怒りと共に自分への怒りもあります。罪悪感から自分を責めてしまう、自分も他人も愛せない、許せない、敵意や争い、などの思いに苦しみ、信仰が後退しているように感じることすらあるのではないでしょうか。しかしそうではありません。むしろ信仰の成長の途上です。聖霊様が望んでくださっているからこそ、そのような心の状態が苦しいのです。光なる神様に近づくほど、自分の心の汚れが見えてくるのです。むしろ正常です。毒を吐き出す苦しみのようなものです。毒を全部吐き出しましょう。多忙な現代人が時間をつくるのは戦いかもしれませんが、やはり時間をかけて神様に心を注ぎだし、熱心になって悔い改め、主の十字架の血潮で洗い清めてもらいましょう。一番恐ろしいのは、その肉の心を持ち続けることです。そこにサタンが働き、神様から引き離そうと狙っています。常に神を見上げ信頼しましょう。今日の一番目のポイントは主を求るです。

②主に聴く

毎日の個人のデイボーション(聖書通読、祈り)は短時間でも習慣づけたいです。詩編1:2主の教えを愛しその教えを昼も夜も口ずさむ人。1:3その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。仕事に出かける方は長く時間を取れないと思います。短くても毎日の積み重ねは、やがて大きな良い実を結ぶでしょう。今年も継続し、時には時間をかけて、神様を求め、深く交わる時を持ちたいです。ガラテヤ 5:16 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 5:17 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。 5:18 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。 霊とは聖霊のことです。肉と霊は相いれません、対立します。神様に喜ばれることをしたいと思うのに、肉が邪魔をして自分のしたいと思うことができないのです。ですから悔い改めて肉なる思いを神様に告白し、出し切った心に、今度は聖霊が宿ってくださるように求めましょう。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。と聖書は言います。先ほどのガラテヤ書の肉のリストの後に、御霊の実のリストが書かれています。ガラテヤ 5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。 5:24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。 5:25 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。 5:26 うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」イエス様を信じた私たちはみな、「キリスト・イエスのものとなった人たち」です。そして実はもうすでに、肉は情欲と欲望と共に十字架につけられ、あなたの肉は処分済みなのだと聖書は語ります。神様がそのようにしてくださったのです。信仰によってそのことを信じ続けましょう。肉はもう処分済みなのです。そのように受け取りましょう。そして御霊が宿ってくださり、御霊が私たちの歩みを導いてくださるので、肉の思いに支配されません。私の経験からすれば、肉の思いはたびたび出てきますが、そのたびごとに悔い改めて主に信頼していくので、肉に支配されなくて済むのです。長く後まで引きずることはありません。そのように御霊によって歩む者に、このような素晴らしい品性の実が、神様によって結ばれていくのです。希望ですね。 「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」どうしたら霊の導きに従えるのでしょうか。ヨハネ14: 26しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。私たちのうちにいてくださる聖霊が、すべてのことを教え、主の言葉を思い出させて下さるのです。ですから聖霊の語ってくださる細き御声を聴く練習を重ねることです。静まって主と交わっているときに、主のみ声を聴くという感覚がわかるようになっていきます。それははっきりとした人間の声で聴こえるというよりも、まさに問題の解決になるような、または心に平安を取り戻すようなみ言葉が浮かんだり、思いの中に示されることです。このような体験が増えていくでしょう。主は一人一人の置かれている状況ををよくご存じで最善に導いてくださいます。主は語ってくださっているのに、私たちが受け取れないのは、主の前に静まる時間を持たないから、また他の方に心が向いているからでしょう。主とあなたとの関係を深め、主に聴く経験を重ねていきましょう。今日の二番目のの番目のポイントは主に聴くです。

③主に従う

 3:31 「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。 3:32 この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。 3:33 その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。 3:34 神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。 3:35 御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。 3:36 御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」31節からは、バプテスマのヨハネの言葉なのか、このヨハネの福音書を書いたヨハネの言葉なのか、二つの説がありますが、私はこの福音書を書いたヨハネの言葉なのではないかと思います。ヨハネはイエス・キリストが神であることを示すためにこの福音書を書きました。31節の「上から」とは天からと言い換えられます。天から来られたキリストと、地に属する人間とは全く違うのです。どんなに優秀な人間でも、所詮比べ物にならないのです。バプテスマのヨハネの弟子がイエス様と自分の先生を比較して嫉みを感じた出来事を書いた後に、イエス・キリストは神であり、「天から来られる方は、すべてのものの上におられる」お方なので、所詮人間と比べ物にならない、比べる方がおかしいのだと言うことを、この福音書記者のヨハネは伝えたっかったのではないでしょうか。3:32この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、誰もその証しを受け入れない。3:33 その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。このお方、イエス・キリストは天上で見たこと、父なる神様から聞いたことを証してくださっても、肉なる人間は、霊の目が曇っていて地上のことしか理解できないので、その証をなかなか受け入れることができない。しかしキリストの言葉を受け入れることのできた者は、神が真実であることを認めたのだと語っています。今の時代、まさにその通りです。神の証を聞いても、神を求める人は少ない。しかしその証を受け入れることのできた私たちは、神が真実なお方であることを知っています。素晴らしいことです。「神がお遣わしになった方」すなわちキリストは、「神の言葉を語られる」のですなぜなら、「神が霊を限りなくお与えになるからです。」そして「御父は御子を愛して、その手にすべてを委ねられた。」イエス様は御父からすべてをゆだねられ、やがて王様として世界を治めるお方です。「御子を信じる人は永遠の命を」与えていただけます。「しかし、御子に従わない者は、命を見ることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」というのです恐ろしいことです。御子を信じるか信じないかで、天と地の開きがあるのです。御子を信じて永遠の命をいただきましょう。信じるとは従うことです。御子に従うことです。先ほど主に聴くとポイントをあげました。主に聴いたなら、次は従うことです。今日の三番目のポイントは主に従うです。人間の力ではできません。聖霊の助けをいただき、主に聴き従っていきましょう。肉は既に十字架で処分済みです。肉の思いに悩まされたなら、このことを思い出し悔い改め、時間をかけてでも御霊によって心を立て直し、神に従う道を歩ませていただきましょう。「原点回帰」という言葉がありますが、肉の思いに苦しむたびに、へりくだって何度でも繰り返し聖書に戻りましょう。そして軌道修正し、主に従う道を歩ませていただきましょう。私自身のことを言えば、日々の生活の中で、ちょっとしたことが原因となり心がざわつくことがあります。でも忙しいので、仕事をしながら心の中でぶつぶつ祈ったり、悔い改めたりして終わりにし、また仕事に集中しようとするのですが、時にはなかなか心のざわめきが収まらない場合があります。そんな時は仕事を辞めて膝まつき、少しの時間、神様に心を注ぎだし祈るようにしています。そうするとみ言葉が思い出されたりして、心の平安が回復してきます。私はほとんど自宅での仕事ですからそのようなことができますが、職場では難しいでしょうが、例えば、トイレの中とか、少しでも一人になれるところで主を求めることで、平安が回復され、更に良い働きができるのではないかと思います。お一人お一人置かれたところで、主から良い知恵が与えられ、工夫し、地の塩、世の光として歩めますように祝福をお祈りします。迎えた2024年、どのような年になっていくのかわかりませんが、はっきりしていることは、どんな問題も必ず乗り越えられること。主が万事を益としてくださることを信じるので、決して奪われない主の平安と希望、喜びがあり、感謝できるということです。信仰とは、自分の願い通りになることではない、神が自分の願い以上のことをなしてくださると信じ、委ねることだと、以前聞いたことがあります。自分の思い通りでなくても、信仰を働かせどんな時も「まず神の国と神の義を第一に求め」天の声に聞き従っていけるように祈りましょう。全能の主、愛と憐れみに満ちた神様が一緒です。そして一人ではありません。みんなで祈り合い、励まし合っていける教会の仲間、神の家族がいます。やがて栄光の御国に行き、父なる神と花婿なるキリストのみ前に立つ時が来ます。ヨハネ14:6イエスは言われた。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。確実にその日は近づいています。日々感謝と賛美をもって、希望を抱き前進させていただきましょう。

今日のポイント ①主を求める、②主に聴く、③主に従う

考えてみよう どうしたら、主のみ声を聴き、従っていけるでしょうか