• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2024年2月4日主日礼拝

説教題:霊的賜物 聖書箇所:コリントの信徒への手紙一12章1-11節

◆霊的な賜物 12:1 兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。 12:2 あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。 12:3 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。 12:4 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。 12:5 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。 12:6 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。 12:7 一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。 12:8 ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、 12:9 ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、 12:10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。 12:11 これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

ハレルヤ!2月の第一主日を迎えました。コリントの信徒への手紙一を講解で学んでおり、今日はその24回目です。先週は美恵子牧師に御言葉を取り次いで頂きましたので、前回のおさらいから始めましょう。前回は、11章17-34節を通して「主の晩餐の在り方」と題し三つの事を中心にお話をしました。①神に対する無限の感謝、②再臨を待ち望む喜び、③悔い改めをもって聖餐式に臨むでした。今日は続く12章1-11節通し「霊的賜物」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①信仰とは聖霊の賜物

12章から話題がかわります。コリント教会には様々な霊的賜物が与えられている人たちがいました。その人たちはその賜物についてパウロに手紙で尋ねたのです。その答えが12~14章に記されています。12章では教会の一致が霊の賜物として重んじられなければならないことを述べています。では、1節から順番に見て参りましょう。 12:1 兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。「ぜひ知っておいてほしい。」とありますが、大事なことを伝えたいパウロの意気込みがわかります。教会生活において、とても大事な事項について読者の注意をひいているのです。パウロは他の手紙でもこの表現を好んで使っています。開きませんがローマの信徒への手紙1章13節、11章25節などを読まれてください。2節を見てみましょう。12:2 あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。新共同訳では「異教徒だったころ」と訳されていますが、原語では「神を知らない人」の総称ですので、ここでは「未信者だったころ」と解釈をした方が良いです。考えてみると未信者の時代には何でも偶像に祀り上げていたのではないでしょうか。以前、八街でご奉仕をしてくださったマルセ・まゆみ牧師は未信者の時代、カエルの置物を拝んでいたと説教で話していたことを覚えています。人は生まれながらに偶像崇拝者と言われていますが、さらに悪魔のささやきに「誘われ」て「偶像のもとに連れて行かれ」てしまうのです。真の神を知る前にはこのようなことはあったかもしれません。私自信も高校受験の前にいくつかの神社に行きお守りやお札を買った記憶がありますが、、キリストと出会い回心しキリスト者となった人には偶像崇拝は大きな罪です。3節を見てみましょう。12:3 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。「イエスは主である」とありますが、初代教会からの基本的信仰告白です。使徒言行録2章36節を開いてみましょう。 2:36 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」他にも開きませんが、ローマの信徒への手紙10章9節、コリント人への手紙二4章5節、フリィピへの信徒への手紙2章11節などを参照ください。主イエスは歴史上に実在したお方です。罪なき神のひとり子としてお生まれになり、十字架に掛かけれて死なれたイエスが永遠の救い主であると言うのです。この信仰告白は単なる人間の理性や常識から理解することは出来ません。ただただ「聖霊」の働きによって理解することができるのです。もし、未信者の方でもこのことが少しでも納得できるとすれば、聖霊が働き始めてくださっている証拠です。コリント教会で信者は「イエスは主である」と告白をしましたが、イエスを主と認めない人たちは「イエスは神から見捨てられよ」とうそぶいていたのです。新共同訳では「イエスは神から見捨てられよ」と訳されていますが、口語訳と新改訳では「イエスはのろわれよ」です。イエスを主と認めない人たちには未信者に加えユダヤ教徒もいました。彼らは申命記の御言葉を熟知していたのです。申命記21章22,23節を開いてみましょう。 21:22 ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、 21:23 死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。イエスを主と認めない人、聖霊の働きを受けていない人にとっては十字架刑に処せられたイエスは神から見捨てられ、呪われた者でしかなかったのです。ですから、人が聖霊を受けているか否かは、その人の信仰告白でわかるとも言えるのです。そして、知っておくべき大切なことがあります。それは、イエス・キリストを自分の主と告白するに至らせるのは自分の力ではなく、その人の内に働く聖霊の力だということです。多くに人は、自分の力で伝道をすることによって相手に信仰を持たせることが出来ると思い、また、自分で決心をして神を信じ自力で信仰に入ることが出来ると思いがちですが、大きな誤りです。キリストを信じる信仰とは全て神の賜物なのです。エフェソへの信徒への手紙2章8節を開いて見ましょう。 2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。勿論、人が救われる過程において人間の力も作用するのですが、これらも突き詰めれば神が用いたものにすぎないのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは信仰とは聖霊の賜物ということです。

②各人に異なる賜物が与えられている

4-6節を見てみましょう。12:4 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。 12:5 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。 12:6 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。「賜物にはいろいろ」、「務めにはいろいろ」、「働きにはいろいろ」とあります。賜物が色々あれば、それによって務めや働きがいろいろと異なっているのは当然のことです。全ての教会員が自分に与えられた賜物にふさわしい務めと働きをすることが大切です。賜物に関して、私が生まれて一番初めに行った教会には伝説的なエピソードがありましたのでご紹介したいと思います。その教会は線路沿いにありますので、電車で通勤している人から見えます。ある朝、一人の教会員の方が通勤していた時に、自分の教会に泥棒が入ろうとしているのを目撃しました。その教会には以前にも泥棒に入られたことがあり、その教会員は途中下車して110番に通報したのです。連絡を受けた警察官が教会にかけつけるとそこには泥棒ではなく朝からはしごを使い教会堂の外壁の掃除に励んでいた執事の方がいたのです。この執事の方は本当に清掃、掃除の賜物がありました。どのような賜物があるにせよ、そこには「同じ霊」、「同じ主」、「同じ神」、三位一体なる神から与えられるのです。賜や務めや働きが人からくるのではなく同じ神からくるのであるならば、様々な違いがあっても、それによって優劣を決めるものではありませんし、まして、争いを起こす原因となるはずがないのです。さて、私たちはどうでしょうか。賜物、働き、務めを他人と比較してつぶやいたり、うらやんだりしてはいないでしょうか。同じ神から各人に異なる賜物が与えられていることを忘れてはならないのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは同じ神から各人に異なる賜物が与えられているということです。ところで、キリスト教の異端やキリスト教系の新興宗教には三位一体の教理を否定しているところが多いです。その理由は三位一体という言葉が聖書に書かれていないと言うのです。確かに三位一体という言葉は聖書には記されていないので聖書用語ではありません。三位一体は神学用語ですが、聖書の中にその実質があります。この2章4-6節がその実質を語っているのです。他にも開きませんがマタイによる福音書28章19-20節、コリントの信徒への手紙二13章13節などが三位一体の確証聖句です。

③賜物は全体の為に与えられている

7節は最後に話をしますので8-10節を見てみましょう。12:8 ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、 12:9 ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、 12:10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。この箇所には九つの聖霊による賜物が記されていますが、これらが全ての賜物と言うわけではありません。この九つの賜物は三つに分類することが出来ます。第一分類 知恵の言葉、知識の言葉、第二分類 信仰、病気をいやす力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、第三分類 異言を語る力、異言を解釈する力、第一分類は霊的理解力と言えます。「知恵」と訳されている原語のギリシア語ではソフィアです。初期キリスト教を代表する2世紀の神学者のクレメンスはこの言葉を「人間的、神的事物(かみてきじぶつ)及びその原因に関する知識」と定義しています。また、古代ギリシアの哲学者であるアリストテレスは、「最善の目的を追求し、最善の手段を用いる事」と述べています。この知恵は最高の知恵なのです。これは人間の思考や知性から生じるものではなく、神との交わりから生まれてくるものなのです。神を知る知恵と言えます。一方、「知識」は原語のギリシア語ではグノーシスと言いますが、実際的なものです。特定の状況において何をすべきかを知る知識のことです。知恵(ソフィア)と知識(グノーシス)。この二つのものは神との交わりによって神の深きところを知る知恵と、その知恵を教会における日常生活と働きの中に実践する知識。この二つはともに必要であり、表裏一体的な関係、切っても切れない関係と言えます。第二分類に属する「信仰」ですが、普通の信仰ではなく、この手紙の13章2節にある「山を動かすほどの完全な信仰」のことです。この完全な信仰によって「病気をいやす力」が可能となり、「奇跡を行う力」が可能となるのです。15年近く前の私が神学生の時ですが、東アフリカ最大の7万人の教会を運営しているジョセファット・ガジマ牧師が来日し、癒しの集会に学友と行きました。ガジマ師は聖霊の働きによる癒しの賜物をもって多くの不治の病の人を癒しており、究極の癒しとして、その時まで150名以上の死者を信仰の力によってよみがえらせていることで有名な牧師です。後日、ある方から、「伏見さんは死人のよみがえりについてどう考えていますか。」という質問を受けました。私の答えは「死人のよみがえりはある」です。その根拠は聖書にその記述があるからです。ナインの町に住むやもめの息子(ルカ による福音書7章11-17節)、マリアとマルタの兄弟ラザロ(ヨハネによる福音書11章38-44節)シナゴーグの会堂長ヤイロの娘(マルコによる福音書5章35-43節)。しかし、ジョセファット・ガジマ師による死人のよみがえりが100%そうかと言えば疑問が残ります。発展途上国ゆえに神が直接介入されることはあると思いますし、また、発展途上国ですので、医療技術が不十分で仮死状態の方が死亡と思われてしまった可能性があるからです。10節に「預言」とありますが、神の言葉を預かることですので、将来のことだけでなく現在のこと過去のことも含まれます。説教も預言の一部と言えます。「霊を見分ける力」とありますが、ヨハネの手紙一4章1節を開いてみましょう。4:1 愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。「霊を見分ける力」とは色々な不思議な業が正しい源から来ているか識別、判断できる能力のことです。第三の分類には「異言」と「異言を解釈する力」です。以前、私たちが所属していたペンテコステ派の教会には異言で祈る婦人がいました。近くで聞いてみると英語のような言葉でした。その方に聞いたところ英語はまったく話せないとのことでしたが、キリスト者で原語の専門家である大学の先生に異言の解き明かしをお願いしたそうです。結果、その方の異言は古代英語だったそうです。異言と異言を解き明かす力は今でも存在しますが、一つ異言について注意すべきことがあります。この手紙の14章22-23章を開いて見ましょう。14:23 教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。私の知っている教会では、この御言葉に倣い、未信者が躓かないように主日礼拝での異言の祈りを禁止している教会があります。祈祷会での異言による祈りはOKです。異言については14章で詳しく学びます。教派間の異言に対する神学の差についてもそのときにお話をします。 11節を見てみましょう。12:11 これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。8-10節で9種の賜物について学びましたが、これらは「同じ唯一の“霊”の働き」なのです。神はこの人にはこれと思うように賜物を分け与えてくださるのです。 最後に7節を見てみましょう。12:7 一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。「全体の益となるため」とあります。「一人一人」に異なる賜物が与えられているのは「全体の益となるため」であって、各自が与えられている賜物を主張したり、誇ったり、卑下したり、批判してはいけないのです。決して個人的な誇りをもって教会内で争うものではないのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは賜物は全体の為に与えられているということです。

Today’s Takeaway

①信仰とは聖霊の賜物 ②各人に異なる賜物が与えられている ③賜物は全体の為に与えられている

Thinking Time

賜物を活かしていますか