• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2024年3月10日

説教題:人を変える十字架と復活による福音 聖書箇所:コリントの信徒への手紙一15章1-11節

 ◆キリストの復活 15:1 兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。 15:2 どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。 15:3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 15:4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、 15:5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。 15:6 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。 15:7 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、 15:8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。 15:9 わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。 15:10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。 15:11 とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。

ハレルヤ!三月の第二主日を迎えました。レントの期間(受難節)ですが、引き続きコリントの信徒への手紙一を講解で学びます。今日はその29回目で、ちょうどこれから復活について学びます。前回のおさらいから始めましょう。前回は、14章20-40節を通し、「秩序の正しい集会~神の言葉はわかりやすく話す~」と題し、三つの事を中心にお話をしました。①預言は信仰者の印、②神の言葉はわかりやすく話す、③全てを秩序正しく行うでした。パウロは14章迄、コリント教会が抱える様々な問題に対して、適切な指導をしてきたこと述べていましたが、問題に対する助言、勧告は終了し、15章で復活について語ります。15章はこの手紙の大きな主題の一つです。聖書学者のW・バークリー先生は、この15章のことを「新約聖書の中で最も雄大である」と述べています。パウロは多くの字数を使い復活論を語ります。それは、コリント教会の中には死者の復活を否定する人がいたからです。この手紙の15章12節に記されています。見てみましょう。15:12 キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。今日は、15章1-11節を通し、「人を変える十字架と復活による福音」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。今日の聖書箇所の新共同訳聖書の小見出しは「キリストの復活」です。時々、復活と生き返りを同義語と思われている方がいますが、これは間違いです。聖書には何か所か生き返った人が記されていますが、一つだけ開いて見ましょう。使徒言行録9章40,41節です。 9:40 ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。 9:41 ペトロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。他にも開きませんが、ルカ による福音書7章11-17節、ヨハネによる福音書11章38-44節、マルコによる福音書5章35-43節にも死人が生き返ったことが記されています。生き返りとは生き返った人がもう一度死ぬということです。蘇生です。しかし、復活とは二度と朽ちることのない体になることです。復活の体の特徴はルカによる福音書24章36-43節から推測が出来ます。鍵のかかった扉を通り抜けることが出来ますが、見て触れることも出来る体です。また、食べなくても死にませんが、食べる喜びが与えられている体なのです。復活は生き返りではないということを大前提として覚えましょう。

①十字架と復活の事実が信仰の基

1節から順番に見て参りましょう。15:1 兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。「あなたがたに告げ知らせた福音、生活のよりどころとしている福音」とあります。パウロがコリントの町で述べ伝えた福音とは、それを信じるだけで永遠の命が与えられるというものです。そして、その福音の核心はイエスキリストの十字架と復活です。これはキリスト教信仰の二つの礎石とも言えます。十字架を裏付けるものが復活です。ですから、初代教会の弟子たちは「復活の証人」という言葉を用いたほどです。使徒言行録1章22節と2章32節を開いて見ましょう。 1:21 -22そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」 2:32 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。キリストの十字架の事実と復活の事実こそが、福音の内容であり、信仰の基なのです。信仰とはキリストの十字架と復活によってもたらされた福音の上に立ったものなのです。このパウロが伝えた福音をコリントの人々は受け入れコリント教会が設立されました。そして、その信仰に立ち教会が存続してきたのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは十字架と復活の事実が信仰の基ということです。また、私たちは復活の事実を見たわけではありませんが、聖書に記されていることを信仰の目を通して、復活の証人となるのです。2節を見てみましょう。15:2 どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。「しっかり覚えていれば」とあります。口語訳では「いたずらに信じないで」と訳されていました。十字架と復活を信じて、その上に固く立ち続けなければならないのです。コリント人の中にはいたずらのように深く考ええることなく簡単に福音を信じ、その結果、キリスト者としてふさわしくない振る舞いをし、御霊の実を結ぶことがない人がいたのです。そのことをパウロは、「あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。」と語るのです。

②十字架から復活は預言されていた

3,4節を見てみましょう。15:3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 15:4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、十字架と復活は、キリスト教信仰の基礎、根源、中心です。ですから、パウロは「最も大切なこととして」コリントの人々に伝えたのです。そして、そのことはパウロ自信が考えたことではなく、パウロも受けたもの」なのです。それは、「聖書に書いてあるとおり」と言います。この聖書は旧約聖書のことで、四つの項目に分類が出来ます。「死んだこと」、キリストの死、「葬られたこと」、埋葬、「復活したこと」復活、「現れたこと」顕現です。「復活した」と訳された原語は受動態です。このことから御子を復活させた父なる神の行為が強調されていることがわかり、また、完了形でもありますので、この状態は永続するということが原語の文法からわかります。キリストの死はイザヤ書53章4-8節に記されています。イエス・キリスト私たちの罪のために死なれたのです。イエスキリストが死なれたのは歴史的事実です。キリストは私たちの罪のために死なれた。その死自体は歴史的な事実ですが、十字架が人間のための贖罪死であることは信仰のみによって認められる出来事なのです。埋葬についてはイザヤ書53章9節に記されています。埋葬は、キリストの死亡の確かさを示す上で重要です。キリストの十字架の死は仮死状態だったという見方への反証となるのです。復活については詩編16編10,11節、49編15節、ホセア書6章2節に記されています。キリストの復活には四つの意味があります。キリストの神性を立証したこと。贖罪の御業が神に受け入れたこと。執り成しをしてくださる仲保者になられたこと、そして、キリストを信じる者への復活の保証です。今日、二番目に覚えて頂きたいことは十字架から復活は預言されていたということです。

③十字架と復活の福音には人を変える力がある

5節を見てみましょう。15:5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。5節に「ケファに現れ」とあります。パウロはケファを筆頭に顕現の事実を一つ一つ取上げて行きます。復活と顕現は区別されます。人間が主イエスを目撃することが出来るのは復活された主が弟子たちの前に顕現されたからです。顕現は復活の証拠と言えます。ケファはペトロ、別名シモンのことです。ルカによる福音書24章34節を開いて見ましょう。24:34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。これは復活された主がエマオに行く弟子たちに現れたときの言葉です、続いて、「その後十二人に現れた」とあります。厳密に言えばユダは含まれていませんが、十二使徒のことです。当時は、この一団をこう呼んでいたようです。ユダを除く十二弟子に現れたことは四福音の全てに記されているほど重要な出来事なのです。6,7節を見てみましょう。5:6 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。15:7 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、「五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました」という記述は福音書や使徒言行録にはありませんが、その出来義を経験した「大部分」のかたは生きているのです。これはどの証人はいないでしょう。「復活の事実を嘘だと思うなら彼らに聞いて見ろ!」というパウロの思いが読み取れます。「ヤコブ」とは主イエスの肉の弟のヤコブです。主イエスの肉の弟たちはイエスの働きを理解できていませんでした。ヨハネによる福音書7章5節を開いて見ましょう。 7:5 兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。新共同訳聖書の7章1-9節の小見出しは「イエスの兄弟たちの不信仰」です。このように不信仰なヤコブでしたが、復活された主イエスに出会い豹変し、エルサレム教会の初代教会長を24年間つとめたと言われています。このヤコブを通して他の兄弟も全員が回心したことでししょう。「すべての使徒」とは使徒言行録1章6-12節に記されている人々と思われます。8-9節を見てみましょう。15:8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。15:9 わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。そして、「最後に、月足らずで生まれたような」自分に現れたと語ります。復活の事実を裏付ける顕現を一つまた一つと数え上げ、これでもかこれでもかと顕現の事実を語るのです。「月足らずで生まれたような」とありますが、早産で生まれた子どものことです。早産児は何らかの理由で突然生まれてくるのです。パウロの回心も突然の出来事でした。ダマスコ途上での劇的な回心です。元々、パウロは熱心なユダヤ教徒でしたので、キリスト教会とキリスト者を迫害していました。ダマスコにいるキリスト者を迫害しに行ったのですが、その途中で主イエスが現れ、その後、劇的に回心をしたのです。このことは開きませんが、使徒言行録9章に記されています。「月足らずで生まれたような」という表現には突然の意味に加え、パウロの謙遜な気持ちもあったでしょう。自分がした迫害を考えれば、弟子のはしくれにもなれない身分です。まして、「使徒と呼ばれる値打ちのない者」なのです。自分は罪びとの頭であり、使徒の中で一番恥ずべき行いをしたものなのです。にもかかわらず、復活の証人となり、使徒として召されたのです。パウロは感激にむせびながら過去を回想していたことでしょう。パウロと同様にキリスト教が大嫌いであった方が、劇的に回心をした話をしたいと思います。1880年にアメリカで発売され200万部を売るベストセラーとなったベン・ハーの著者であるルー・ウォーレスです。文学者であり、将軍であったルー・ウォーレスは、「俺はいずれ、世界からキリスト教を撲滅してしまうような本を書く」と公言していました。 キリスト教を徹底的に研究し、復活や奇跡が作り話だと証明しようとしていたのです。そんなある夜のこと、一つの疑問が沸き上がりました。あのキリストの軟弱な弟子たちが、復活後に何故あのように突然強くなったのか、という疑問です。復活は事実だったのかもしれない。その夜、彼は回心をし、ひざまずき、それまで自分が滅ぼそうとしていたイエス・キリストに向かって、祈って言った。「わが主よ。わが救い主よ。」その後、暫くして ルー・ウォーレスはあの不朽の名作「ベン・ハー」を書き上げたのです。私自身もそうです。キリストと出会う前は本当に放蕩息子でしたgが、私が救われた6年後に父が救われました。父が入所していた施設に当時の所属教会の主任牧師と私が見舞いに行き導かれたのです。その時、父は主任牧師にこのように語りました。「先生、息子は本当にどうしょうもない息子でしが、教会に行き始めてから変わりました。神様、イエス様、先生のおかげです」と。そんな私でしたが、主の哀れみより、来月で牧師となり十年となります。今日、三番目に覚えて頂きたいことは十字架と復活の福音には人を変える力があるということです。

④全ては神の恵みによる

10,11節を見てみましょう。5:10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。「神の恵み」という言葉が強調のために三回も記されています。恵みとは受ける価値なき者に与えてくださる神の憐れみです。「神の恵みによって今日のわたしがある」とあります。パウロは自分の過去を思えば恥ずかしさに堪えないのです。キリスト教会とキリスト者に徹底的に迫害し続けていたパウロに、復活された主は現れたのです。まったくの「神の恵み」としか言いようがありません。この恵みに支えられて、「月足らずで生まれたよう」なパウロが「他のすべての使徒よりずっと多く働きました」と言うのです。パウロの自信が伺えますが、パウロはそのことを決して誇ってはいません。それは、自分が良い働きをすることが出来たのは、「わたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」とある通りです。パウロは一切の栄光を神に帰しているのです。復活された主が自分と共にいてくださらなかったら、どうして、自分のようなものにこんな働きが出来ただろうという感謝の心を現わしているのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは全ては神の恵みによるということです。11節を見てみましょう。15:11 とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。「彼ら」とは「他のすべての使徒」のことです。パウロも全ての使徒たちも、キリストが十字架につけられて、復活さられたという福音を宣べ伝えたのです、この歴史的な事実をパウロと全ての使徒は宣べ伝えたのです。コリントの人たちは福音を「このように信じたのでした。」しかし、すべてのコリント人が復活を信じていたわけではありませんでした。そのことについては次回、詳しく学びます。

Today’s Takeaways ①十字架と復活の事実が信仰の基 ②十字架から復活は預言されていた ③十字架と復活の福音には人を変える力がある ④全ては神の恵みによる

Thinking Time 神の恵みにどのように応えますか