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2024年3月17日主日礼拝

説教題:キリストは復活した 聖書箇所:コリントの信徒への手紙一15章12-22節

◆死者の復活 15:12 キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。15:13 死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。15:14 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。15:15 更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。15:16 死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。15:17 そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。 15:18 そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。15:19 この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。15:20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。15:21 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。15:22 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。

ハレルヤ!三月の第三主日を迎えました。引き続きコリントの信徒への手紙一を講解で学びます。今日はその31回目で、今回も復活について学びます。前回のおさらいから始めましょう。前回は、15章1-11節を通し、「人を変える十字架と復活による福音」と題し、四つの事を中心にお話をしました。①十字架と復活の事実が信仰の基、②十字架から復活は預言されていた、③十字架と復活の福音には人を変える力がある、④全ては神の恵みによるでした。今日は、15章12-22節を通し、「キリストは復活した」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①キリストは神であり人でもある

12節から順番に見て参りましょう15:12 キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。「死者の復活などない」とあります。先週もお話をしましたが、コリント教教会の中には死者の復活を否定する人がいました。そこで、パウロは多くの字数を使いイエスキリストの復活論を語っています。これらの人たちはキリストの復活は信じていましたし、人間の永続性も信じていました。プラトンのように霊魂不滅論を信じていたのです。しかし、人間の肉体が復活するということが信じられなかったのです。その背景には魂の普遍は信じるが、肉体は滅びるものと考えるギリシャの二元論の影響があったと思われます。そんな彼らに対して、パウロは13-19節で、仮定に基づく弁証法で一つずつ反論をしています。13節を見てみましょう。15:13 死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。13節の真意は、「死者の復活があるから、キリストも復活した」です。この13節を理解するためのポイントはキリストの神性と人性です。イエス・キリストは神性を持つ(すなわち100%神である)と同時に人性も持つ(100%人間である)のです。これを神学用語でキリストの両性といいます。キリストは100%神で100%人間なのです。神で50%が人間ではないのです。ですから、「死者の復活があるから、人間キリストも復活した」となるわけです。キリストは100%神で100%人間なのです。今日、先ず覚えて頂きたいことはキリストは神であり人でもあるということです。

②キリストの復活は歴史的事実

14節を見てみましょう。15:14 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。14節の真意は、「キリストが復活したので、わたしたちの宣教は有益であるし、あなたがたの信仰も有益です。」となります。キリストが復活されたことで贖いの御業が完成し、福音が生まれたのです。イエスキリストを救い主と信じるだけで救われるとういう信仰と福音宣教はまことに有益なものなのです。15節を見てみましょう。15:15 更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。「わたしたちは」とあります。イエスの弟子たちは復活されたイエスと直接お会いし、宣教を命じました。このことは共観福音書の全てに記されていますが、マタイによる福音書28章16-20節を開いて見ましょう。大宣教命令です。28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」このように復活された主イエスが弟子たちに現れたのは歴史的事実です。 ですから、もし復活もしていないのに、復活をしたとの偽証を言ったとしたら、「神の偽証人とさえ見なされ」また、「神に反して証しをしたことになる」とパウロは語るのです。 キリスト教は単なる道徳や宗教のお話ではありません。実際にこの世で起こった出来事に基づく、神がご用意された救いについてです。ですから、事実を極めて重要視します。事実かどうかよくわからないことや、事実でないことを語ることはできないのです。私が偽証という言葉を初めて聞いたのは元総理大臣の田中角栄さんが逮捕されたロッキード事件です。国会で証人喚問をした方が偽証罪で問われたのです。日本の場合、国会に喚問された証人は、偽証しないことを良心にかけて宣誓をします。一方、アメリカの議会の証言者は、聖書に誓い神に対して真実を話すことを誓うのです。自分の良心に対して誓う時、人間は偽りを言うものですが、神に対してはいかなる偽りも通用しないのです。パウロは生粋のユダヤ人でしたので、神に対して偽証するなどあり得ないことなのです。そのパウロが命をかけて証言するのがキリストの復活なのです。神に対して偽証してまで、ありもしなかったことを述べ伝えるような虚しい宣教をパウロはするはずがないのです。16節を見てみましょう。15:16 死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。16 節は13節をもう一度、反復して強調をしています。15:13 死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。17節を見てみましょう。15:17 そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。「キリストが復活しなかったのなら」そこに救いはありません。復活の無い「信仰はむなし」いものに過ぎません。「むなしく」と訳された原語の意味は「無駄、無益」です。一種の盲信とも言え、なんの力もない信仰です。もし、そんな信仰であれば、キリストの名に連なっていたとしても、「罪の中に」いることとかわらないのです。復活こそ、十字架上による罪の贖いが神に受け入れられ、救いが成就した保証なのです。同段落PPTローマの信徒への手紙4章25節を開いて見ましょう。4:25 イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。十字架の贖いと復活により、私たちの罪が取り除かれだけでなく、「わたしたちが義とされる」のです。復活の主は私たちの生ける力となり、生命となるのです。ですから、復活を信じない者には、この力にもこの希望にも預かることが出来ずに、「今もなお罪の中に」いることにならざるを得ないのです。18節を見てみましょう。15:18 そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。「眠りについた人々」とありますが、聖書では肉体の死を眠りにつくと表現する場合があります。キリスト再臨までに死んだ方たちのことです。テサロニケの信徒への手紙一4章16,17節の前半を開いて見ましょう。4:16 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、 4:17 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。死者の復活がないとすれば、キリスト者として死んだ者は、「滅んでしまった」ことになってしまうのです。死者の復活があるので、永遠の命があるのです。19節をアライブ訳聖書と共に見てみましょう。15:19 この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。15:19もしイエスの信者クリスチャンであることが、この世の生活でしか価値がないのなら、私たちほどみじめな者はない。(アライブ訳)復活のキリストに永遠の望みを置けばこそ、この世にあって喜びもあり、苦難にも耐える事ができるのです。しかし、キリストにある永遠の希望がないとしたら、これほど「みじめな者」はいない、「最も惨めな者」なのです。ある著名な学者が死に際に「私には未来がない。絶望だ」と言いながら臨終を迎えた話を何かで聞いた事があります。しかし、キリスト者にとって肉体の死はキリストと再びお会いするまでの一時的な眠りに過ぎないのです。再臨のときにキリスト者は二度と朽ちることにない体になるのです。霊の体とも言えます。これはキリストの復活によるもので、キリストの復活と等しいものなのです。キリスト者の親子、夫婦、友人は永遠に朽ちないからだで再会するのです。復活の信仰は私たちにこの希望を確かなものとするのです。キリストは死を打ち破り復活されたのです。後ほど賛美する新聖歌518番「 きよき岸辺に」に復活信仰の内容が良く現われています。3節を見てみましょう。

親はわが子に 友は友に 妹背(いもせ)あい会う 父の御許(みもと)

雲はあとなく 霧は消えはて 同じ御姿(みすがた) 共に写さん

やがて会いなん 愛(め)でにし者と やがて会いなん 

最近は聞くことのない言葉ですが、妹背(いもせ)とは、親しい間柄の男女。夫婦。恋人どうし。妹と兄。姉と弟。の意味です。妹兄と書く場合もあります。20節を見てみましょう。15:20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。13-19節で復活が起こらないという仮定の場合の結末がいかに愚かであることを述べてきましたが、20節から視点を仮定から事実に替えて、キリストの復活を述べています。「実際」とあるように「キリストは死者の中から復活し」たことは事実なのです。キリストの復活については四福音書の全てに記されているほど重要な出来事だったのです。そして、「眠りについた人たちの初穂」となったのです。キリスト再臨までに死んだ方たちはキリストが復活されたので、再臨のときに二度と朽ちることにない体、霊的体にかわるのです。キリストが一番初に復活されたので、そのことを初穂と呼んでいるのです。旧約時代、「初穂の祝い」では、春一番に収穫された大麦の束が祭司によって捧げられていました。開きませんが、レビ記23章10,11節に記されています。その初穂はそれに続いてその年に収穫される全ての収穫物の代表です。同様にキリストが復活の初穂で、既に死んでいた(眠っていた)キリスト者も初穂に続いて復活をするのです。この初穂には収穫物の初穂という意味に加えて、保証という意味もあります。キリストに在る者が必ず復活するという保証です。パウロは12-20節で復活という言葉を8回使っていますが、原語では能動態(神がキリストを復活させる)2回、受動態(神によってキリストが復活させられる)が6回です。英語の聖書(KJV)でも受動態です。But now is Christ risen from the dead, and become the firstfruits of them that slept.復活という動作の行為者は神なのです。これはキリストが救済の御業を父なる神の御手にお任せになったことを現わしているのです。この事をペトロは次のように述べています。ペトロの手紙一2章22-25節を見てみましょう。 2:22 「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」 2:23 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。 2:24 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。 2:25 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。キリストの十字架は、死が滅ばされ、罪人が罪から贖い出されて神の子とされ、永遠の命を持つための絶対必要条件だったのです。しかし、その贖いの死もキリストの復活が無ければ無効となってしまうのです。キリストの復活なしには救いはあり得ないのです。教会もキリスト教も聖書も成り立たないのです。そして、罪びとを救うことが出来るのは、キリストの教えではなく、復活されたキリストの力なのです。仮にキリストが復活されなかったとしたらどうであろうか。良い教訓を残しつつもヘロデ王やローマ帝国の支配に抗い十字架刑で処刑された一人の人間なのです。ユダヤ民族から現れた一偉人に過ぎないのです。しかし、私たちは十字架に掛けられ死んだだけのイエスを拝んでいるのではありません。主日礼拝の対象は、復活された神の子イエス・キリストであり、ここに救いがあるのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことはキリストの復活は歴史的事実ということです。

③キリストに結びついている

21,22節を見てみましょう。15:21 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。15:22 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。「一人の人」と二回記されていますが、初めの「一人の人」は最初の人間のアダムで、後の「一人の人」はキリストを示しています。このアダムの犯した罪については、開きませんが創世記2章17節、3章19節を読まれてください。この罪によってアダムの子孫である全ての人間が死ぬこととなったのです。ローマの信徒への手紙5章12節を開いてみましょう。PPT 5:12 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。アダムの場合とは対極的に全ての人がキリストにあって生かされるようになるのです。キリストを信じる全ての人は復活するのです。では、どうしてキリスト者はキリストと同様に再臨のときに復活をするのでしょうか。それは「キリストによって」です。口語訳聖書では「キリストにあって」と訳されていていました。英語の聖書(NASB 1977)を見てみましょう。 For as in Adam all die, so also in Christ all shall be made alive.英語の聖書ではin Christです。直訳するとキリストの中にいる。わかりやすく言えばキリストに結びついてです。助動詞には預言、決まり事のShallが使われています。キリストに結びついている者がキリストと同じように復活することは当然のことなのです。今日、最後に覚えて頂きたいことはキリストに結びついているということです。

Today’s Takeaways ①キリストは神であり人でもある ②キリストの復活は歴史的事実 ③キリストに結びついている

Thinking Time 復活の体となる喜びはありますか