• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2024年3月3日

説教題: 秩序の正しい集会~神の言葉はわかりやすく話す~

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一14章20-40節

14:20 兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。 14:21 律法にこう書いてあります。「『異国の言葉を語る人々によって、/異国の人々の唇で/わたしはこの民に語るが、/それでも、彼らはわたしに耳を傾けないだろう』/と主は言われる。」 14:22 このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです。 14:23 教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。 14:24 反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、14:25 心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。 ◆集会の秩序 14:26 兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。 14:27 異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。14:28 解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。 14:29 預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。 14:30 座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい。 14:31 皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。 14:32 預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです。 14:33 神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、 14:34 婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。 14:35 何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。 14:36 それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。 14:37 自分は預言する者であるとか、霊の人であると思っている者がいれば、わたしがここに書いてきたことは主の命令であると認めなさい。14:38 それを認めない者は、その人もまた認められないでしょう。14:39 わたしの兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして、異言を語ることを禁じてはなりません。14:40 しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい。

ハレルヤ!三月の第一主日を迎えました。レントの期間ではありますが、引き続きコリントの信徒への手紙一を講解で学びます。今日はその28回目です。前回のおさらいから始めましょう。前回は、14章1-19節を通し、「霊の賜物である異言と預言」と題し、三つの事を中心にお話をしました。①異言は解釈を必要とする、②未信者や求道者へ配慮する、③神学的な差は認め合うでした。今日は続く14章20-40を通し、「秩序の正しい集会~神の言葉はわかりやすく話す~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①預言は信仰者の印

20節から順番に見て参りましょう。14:20 兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。「兄弟たち」という呼びかけは、パウロの愛情、配慮の現われです。ワンクッション入れることで叱責を和らげることが出来ます。「物の判断」とは物事の判断や認識の能力のことです。「子供」には、おとなのようは社会的、倫理的な判断はできません。まわりの状況を十分につかむことができないからです。また、「子供」は何か優れたものがあると見せびらかしたりしますが、それは子どもじみたことです。同様に異言の賜物を持つ人がそれを誇るとしたら、それも子どもじみたものなのです。「悪事については幼子」とあります。つまり嬰児のようになにもわからない方が良いとパウロは語りますが、考え方は「大人」、つまり、成熟したものになるべきだとは言うのです。21,22節を見てみましょう。14:21 律法にこう書いてあります。「『異国の言葉を語る人々によって、/異国の人々の唇で/わたしはこの民に語るが、/それでも、彼らはわたしに耳を傾けないだろう』/と主は言われる。」4:22 このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです。21節から、再度、異言と預言の対比が描かれています。「律法にこう書いてあります」とありますが、鍵括弧の部分はイザヤ書28章11,12節からの引用です。確認をしてみましょう。同段落PPT 28:11 確かに、主はどもる唇と異国の言葉で/この民に語られる。 28:12 主が彼らに言っておかれたことはこうだ。「これこそが安息である。疲れた者に安息を与えよ。これこそ憩いの場だ」と。しかし、彼らは聞こうとはしなかった。イザヤ書の内容は、イスラエルの民は預言者の言葉に耳を傾けなかった。それで、イスラエル人への裁きは、異なった言葉を話す侵略者のアッシリア人に委ねられるということです。「異国の言葉」が異言、「異国の人々」が未信者に例えられています。パウロが言わんとしていることは預言者に耳を貸さなかった者たちが、聞いてもわけのわからない言葉を聞かされることによって断罪されたように、コリントの教会でも同じことが起こっていると指摘するのです。未信者が異言を聞かされるはめになったらなどうなるのか考えなさいということです。一方、預言は信仰者の印だと言うのです。それは、預言は神の行為を明らかにするものだからなのです。今日、先ず覚えて頂きたいことはと預言は信仰者の印ということです。23節を見てみましょう。14:23 教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。教会に集まった「皆が異言を語っているところへ」、初心者や未信者が来たらどうだろうか。きっと異言で祈っている人のことを「気が変だと」思うでしょう。私が良く知っているペンテコステ派の大きな教会があります。その教会では異言で祈ることを推奨していますが、礼拝での異言の祈りは禁止しています。祈祷会では認めています。初心者や未信者の方が躓かいないための配慮です。異言だけでなく私たちが日常使っている教会用語も注意する必要があります。先週も言いましたが、未信者や初心者を躓かせない配慮は大切です。

②神の言葉はわかりやすく話す

24,25節を見てみましょう。14:24 反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、 14:25 心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。24,25節には預言がもたらす結果が記されています。教会に集まった皆が預言しているところへ」、初心者や未信者が来た場合のことが記されています。異言は未信者に理解されないばかりか、躓きとなるので伝道には無用です。しかし、預言、説教を通して語られる神の言葉で、未信者は心を探られ罪を自覚し、『ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになる』のです。これは、まさに大きな出来事です。「預言」は神の言葉が教会においてはっきり述べられ、ここに神がいますという確信を初心者や未信者に与えることが出来るのです。礼拝の正しい在り方を決めるものは、出席者に神のご臨在を感じさせることができるかということなのです。キリスト者になるためには、自分の罪を認めなければなりません。これを神学用語で認罪と言います。人を救に導くのは聖霊なる神です。聖霊が私たちの心の中にある罪を指摘し、このままであればその罪のために裁きを受けなければならないことがわかるのです。心の中に隠していた罪を聖霊が明らかにしてくださるのです。しかし、ある日突然、聖霊がそのことを指摘するのではなく預言、神の言葉を通して罪を示されるのです。ですから、未信者がわかる言葉で話すことが重要なのです。私自信のことですが、20年近く前に九死に一生の転落事故がきっかけで生まれて初めてキリスト教会の門を叩きました。教会員の方から歓待され、教会員の方に会うのが楽しみで通い続けました。説教はエレミヤ書の講解説教でしたのでさっぱりわかりませんでしたので、キリスト教についての書物を読み漁ったのですが、なにがなんだか良くわかりませんでした。教会に通い始め4か月後に、TVでキリスト教の番組を見ました。見ようと思っていたわけではなく時計代わりにTVを付けていたのですが、今、思えばこれも聖霊の導きでしょう。番組は15分で牧師のとてもわかりやすいメッセージとこれまた信徒によるわかりやすい証でした。毎週、楽しみにして見ていたのですが、どうしてもこの教会に行きたくなり、それまで通っていた教会を離れるのはとても辛かったのですが、その教会に通い始めました。頂いた週報に「質問などは遠慮なくどうぞ」と電話番号とメルアドがありましたので、その日からその教会の牧師と私の間でメールのやり取りが始まりました。色んな事を質問したのですが、ある日、質問をしていないのですが、牧師から次のようなメールがありました。「聖書。キリスト教は赦しです。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。 (マタイによる福音書18:22)とは490回赦しなさいという意味ではありません。無限に赦しなさいと言う意味です。これは人間には出来ませんが、イエスキリストを救い主として受け入れた方には聖霊なる神様が内にとどまってくださり、聖霊様の働きによって可能となるのです。ちょうど、月はそれ自体では光りませんが、太陽の輝きを受けて光るのと同じです」と。この大変わかりやすいメールにそれまでの断片的な理解が一気に繋がり、モヤモヤ感がスッキリし信仰を持つことが出来たのです。その牧師とは昨年の10月に帰天しましたが、日本アッセンブリー教団 小岩栄光キリスト教会の主任牧師だった吉山宏先生です。私の父も吉山先生に導かれて9年前に天国に行きました。今日、二番目に覚えて頂きたいことは神の言葉はわかりやすく話すということです。

③全てを秩序正しく行う

26節を見てみましょう。14:26 兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。異言と預言について語ってきたパウロですが、26節から礼拝の秩序について語ります。「詩編の歌、教え、啓示、異言、解釈」とありますが、初代教会時代に行われていた礼拝の順序だったと思われます。「異言、解釈」がこの位置にあることに牧会的配慮が読み取れます。「あなたがたを造り上げるためにすべきです。」とあるように、礼拝の出席者全員の信仰を増し教会のためとなり、教会の頭であるキリストの栄光を現わすものでなければならないのです。どんなに素晴らしい教会でも、人間がその栄誉を占めてはならないのです。全ての栄光は主にお返ししなければならないのです。27,28節を見てみましょう。14:27 異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。 14:28 解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。集会が教会の徳を高め、主の栄光を現わすためには、全てが秩序正しく行われる必要があります。27,28節は異言を語る場合の注意点です。「異言を語る者が」すべてを占めてはならないのです。「二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。」とある通りです。続いて、「解釈する者がいなければ」とあります。異言の解き明かしをする賜物を持つ人がいない場合は、「教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。」とパウロは勧めています。29-33 節は預言についての注意点です。わかりやすいAlive訳で見てみましょう。14:29預言の才能に恵まれている人の場合も、1人ずつ2人か3人が預言しなさい。そして、ほかの人はみな、それを聞くのだ。14:30しかし、だれかの預言中に、別の人にイエス様からお告げがあれば、先に話していた人は、いつまでも話していないで、交代しなさい。14:31このようにして、預言の才能に恵まれている人はみな、代わる代わる話すのだ。そして、だれもが学び、励まされ、助けを受けるのだ。14:32神からことばを与えられている人は、自分の番まで自制して待つ能力も与えられていることを、忘れるんじゃあない。14:33神は、無秩序や混乱を喜ばない。調和を愛する神だからこそ、どの教会にもこの調和があるのだ。2人か3人で預言すること。他の人は聞くこと、交代をすること、自分の番まで待つことが勧告されています。そのようにすべき理由が「神は、無秩序や混乱を喜ばない。調和を愛する神だからこそ、どの教会にもこの調和があるのだ。」です。教会における秩序の維持について語ったパウロは続く34節以降で、教会の婦人における秩序について語ります。34節を見てみましょう。14:34 婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。14:35 何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。聖書の箇所には解釈が難しい箇所がいくつかありますが、34,35節もその一つです。その理由は、この手紙の11章2-16節と矛盾するからです。11章5節を開いて見ましょう。11:5 女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。開きませんが、ガラテヤの信徒への手紙3章26-28節に記されていることにも矛盾します。女性が預言をするときにかぶり物をしないことへの忠告ですが、女性の預言は認めているのです。この34,35節の解釈には諸説ありますが、私はドイツの神学者のヴェントラント先生の解釈が一番良いと思っています。ヴェントラント先生は「女性が説教を批判することを禁じたものである」と解釈しています。説教で「何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞」けば良いのです。当時、説教の批判は赦されていました。29節に記されている通りです。14:29 預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。「検討しなさい」の部分はいくつかの英語の聖書ではpass judgment (判決をくだす)と訳されています。私は中野雄一郎先生が主宰されていた説教塾に通っていたことがありますが、説教について質問を受けたり、批判されたりすることは説教者にとって大いに学ぶことがありました。36節を見てみましょう。14:36 それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。パウロはコリントの教会の無秩序な振る舞いについて皮肉を込めて語っています。「神の言葉は」すべての教会のもので、コリント教会もその一部であることを忘れてはならないのです。全ての教会に通じる慣習にはコリントの教会の人々も従うべきなのです。37,38節を見てみましょう。14:37 自分は預言する者であるとか、霊の人であると思っている者がいれば、わたしがここに書いてきたことは主の命令であると認めなさい。14:38 それを認めない者は、その人もまた認められないでしょう。「預言する者、霊の人」とあります。コリントの教会には霊的な賜物を与えられと自負し、教会の秩序を乱していました。そんな人に対して、パウロは、もし、そういった霊的な賜物があるのなら、パウロの話が「主の命令」であることがわかるはずだというのです。37節は完全に皮肉です。「それを認めない者]とあります。使徒としてのパウロが語ったことを「主の命令」として認めることが出来ないのなら、その人たちの霊の賜物も「認められない」ものなのです。自明の理です。39,40節を見てみましょう。14:39 わたしの兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして、異言を語ることを禁じてはなりません。14:40 しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい。「わたしの兄弟たち」とパウロはもう一度、優しい心をもって教会の秩序についての話を終えます。「預言することを熱心に求めなさい。」同段落PPT14章1節の言葉を繰り返して、預言を強調したものですが、同時に「異言を語ることを禁じて」もいないのです。預言を積極的に勧め、異言は禁じてはいませんが、「すべてを適切に、秩序正しく行いなさい。」と結んでいます。この40 節は、今まで述べてきた様々な問題についてパウロが述べてきたことの結語です。全てのことが極端にならず、秩序正しく行われなければならないのです。教会の秩序の維持こそがパウロが切望していることなのです。③全てを秩序正しく行う。次回、15章は復活論になります。

Today’s Takeaways ①預言は信仰者の印 ②神の言葉はわかりやすく話す ③全てを秩序正しく行う

Thinking Time 秩序正しく礼拝が行われているでしょうか