• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2021年8月22日主日礼拝  

説教題:パウロの願い~律法に戻るな!~ 聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙4章8-20節(

◆キリストがあなたがたの内に形づくられるまで 4:8 ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。4:9 しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。4:10 あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。4:11 あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。4:12 わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。4:13 知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。4:14 そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。4:15 あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。4:16 すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。4:17 あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。4:18 わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。4:19 わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。4:20 できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。        

ハレルヤ!8月の第四主日を迎えています。7月からガラテヤの信徒への手紙を講解で学んでいて、今日はその8回目となります。先週は、3章23節-4章7節から「皆が約束による相続人」と題して三つのことを中心にお話をしました。①律法の効力が及ばない②皆が約束による相続人③神の子の自覚は聖霊の働きでした。今日は4章8-20節から「パウロの願い~律法に戻るな!」と題してお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①神に知られている

8節から見て参りましょう。4:8 ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。8節に「神を知らずに、神でない神々に奴隷」とあります。パウロはガラテヤの人々が真の神を知らずに「神でない神々」の奴隷になっていたことを指摘します。真の神を知る迄、ガラテヤの人々は異教の神々を拝んでいたのです。偶像崇拝をしていたのです。偶像とは人間が作り上げたものですので真の神ではありません。エレミヤ書には次のようにはっきりと記されています。 16:20 人間が神を造れようか。そのようなものが神であろうか」と。9節を英語の聖書と一緒に見てみましょう。4:9 しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。4:9 But now after you have known God, or rather are known by God, how is it that you turn again to the weak and beggarly elements, to which you desire again to be in bondage?(NKJV)「しかし、今は神を知っている」と始まり、8節との対比が記されています。私が知る限り、英語の聖書ではこの知るという言葉は全てknow(および活用形)です。Know aboutではありません。フィリピ書の講解説教でも話しましたが、knowは目的語となる人や物を直接知っている場合に使います。経験や体験を通して直接、知っている意味です。ガラテヤの人々はパウロから福音を聞きました。神を経験や体験を通して直接知っていたのです。加えて「known by God」とあるように神の側からも知られていたのです。ですから、どうして「無力で頼りにならない支配する諸霊」に仕えたりするか、もう一度それらに支配されるのかと叱責、激を飛ばしているのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは神に知られているということです。主イエスを信じる信仰を通して神を知るようになる。そして、その人はその人が生まれる遥かに前から神に知られ、神から愛され続けているのです。パウロはこの手紙の3章1節でガラテヤの兄弟のことを「 ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、」と呼び嘆きましたが、パウロの気持ちがよくわかると思います。私たちはどうでしょうか。真の神を知っていると言いつつ、偽の神々や偶像を崇拝してはいないでしょうか。今ここで心を探ってみたいと思います。ところで、先週もお話しましたが、「支配する諸霊」と新共同訳では訳されていますが、この原語は「初歩的な要素」が基本的な意味ですので、新改訳聖書の訳「この世の幼稚な教え」の方が良いと思います。10,11節をみてみましょう。4:10 あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。4:11 あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。「いろいろな日、月、時節、年などを守っています。」とあります。安息日、断食日、新月、仮庵の祭り、7年ごとの安息年等のユダヤ教の祭儀律法を守っていましたのですが、福音の本質を見失ってしまっていたのです。また、これらの祭儀律法の取りつかれることで異教の天体崇拝に通じる可能性をパウロは指摘しているのです。11節に「労したのは、無駄になった」とあります。恵みである福音をパウロ伝えたことが無駄になってしまうことを危惧しているのです。2章21節aで「わたしは、神の恵みを無にはしません。」と宣言した通りです。

②背後の働きも重要

12節をみてみましょう。4:12 わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。11節まで叱責的な内容でしたが、12節からは嘆願に代わります。自分とガラテヤの人々との親しい交わりを回顧しつつ、ガラテヤの人々の心情に訴えています。12節は原語では「あなたがたもわたしのようになってください。」から始まります。懇願です。この言葉は時と場合によっては傲慢にも不遜にも聞こえますが、そうではありません。パウロが言わんとしていることはキリストの恵み以外はなにも頼りにしないとう生き方です。フィリピの信徒への手紙1章21節に記されている生き方です。1:21 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。「わたしもあなたがたのようになった」とありますが、パウロはユダヤ人でありましたが、異邦人を差別することなく愛の手を差し伸べていたことです。続いて、「兄弟たち」と呼びかけます。パウロは語気を和らげ嘆願を続けます。「わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。」とありますので、パウロが自分自身や使徒職を否定されたことはなかったと思われます。13節をみてみましょう。4:13 知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。「体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。」とあります。「体が弱くなったこと」には風土病のマラリア熱との学説など諸説ありますが、はっきりしたことはわかりません。特筆すべきはたとえ病気であったとしてもパウロはガラテヤの人達に福音宣教がされたということです。健康であるということは素晴らしいことです。主の働きをする上においても健康であることは望ましいことではありますが、絶対条件ではありません。以前、マザーテレサの映画(主役オリヴィア・ハッセー)を見たことがあります。病気のため一人のシスターが泣く泣くマザーテレサが仕える修道院を離れました。そのシスターはマザーテレサの下で主の働きをもっともっとしたかったのです。彼女が修道院を去り暫くすると大きな問題が起こりました。するとマザーテレサは彼女に連絡をします。「お願いがあるの。祈ってちょうだい」と。直接、伝道をすることが出来なくても背後の祈りはできるものです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは背後の働きも重要であるということです。14,15節をみてみましょう。4:14 そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。4:15 あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。パウロの病名はわかりませんが、その病気は周りの人が嫌がる病気だったと考えられます。ですから、14節でパウロは病人であった自分を受け入れてくれたことに感謝をしているのです。15節に「あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。」とあるようにパウロはガラテヤの人たちの豹変ぶりを嘆きます。ガラテヤの人々はパウロに「自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとした」とまでしていたのです。因みにですが、この個所からパウロの病気は目の病気だったとの学説もあります。16-18節をみてみましょう。4:16 すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。4:17 あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。4:18 わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。自分の目を差し出してまでパウロのために尽くそうとしていたガラテヤの人々ですが、割礼派の人々に惑わされてしまったのです。16節に「真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。」とあります。悲しいことにパウロが伝えた真の福音がそれゆえに、敵とみなされてしまったのです。17節の「あの者たち」とは言うまでもありませんが、割礼派の人々です。その割礼派の人たちがガラテヤの人々に対して「熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようと」しているものなのです。割礼派の人たちの動機は不純なものです。人間的な動機です。注意したいことは、こうした人間的な不純な動機というものは正しい福音を伝えている人にも、絶えず誘惑として起こります。私たちが自分に周りの人を引きつけようと願うのは、すべての人間の生まれながらの性質だからです。ある教会でPAの奉仕を長らくしている方がいます。PAとはPublic Adressの略で、音響機器の事です。その方は元々技術屋なのですが、PAをしていると悪魔からの物凄い誘惑があると言いました。先ず、自分しかPAが出来ないと思わせる。他の人にPAの奉仕を一切させない。また、自分の好みの音を作ってしまっていることがあると。これは教会の成長を妨げ、自分に栄光を帰すことに繋がります。ですから、常に主のための働きであることを忘れずに、御旨を祈り求める必要があると語りました。悪魔は福音を正しく伝えている者を誘惑するのです。ですから私は福音を正しく伝えているからといって安心をしてはいけないのです。

③律法に戻ってはいけない

19-20節をみてみましょう。4:19 わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。4:20 できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。パウロは親しみ込め「わたしの子供たち」と呼びかけます。ガラテヤの人々はパウロが苦難のうちに産んだ子どもたちです。パウロは彼らの霊的な父親です。パウロはガラテヤ地方の伝道においも、辱められ、石で打たれ、半死半生の目にあったこともあったでしょう。そのような苦労の末に生まれた教会でした。パウロは命がけの難産で彼らを産みました。その後、順調に育っていたのですが、割礼派の人々の教えに惑わされ、気が付けばキリストの似姿を失ってしまっていたのです。すから、続いて、「キリストがあなたがたの内に形づくられる」と語り、パウロがガラテヤの人々にそうなって欲しいことを切望しているのです。これは12節の「あなたがたもわたしのようになってください」を分かり易く表現したものです。そして、彼らのうちにキリストが生きるよう、再び産みの苦しみを負う覚悟を宣べているのです。インマヌエル綜合伝道団代表の藤本満先生の著書(ガラテヤ人への手紙)にノンフィクション作家の松下竜一さんによる「汝を子に迎えん ―人を殺めし汝なれど」という本が紹介されていました。簡単に要約をしますと、ある男性が幸福に暮らす二家庭の母子三人を惨殺し死刑囚となりました。その殺人の一因が不幸な家庭で育ったことが新聞記事となり、その見出しは「母恋し・・・一転恨みに 幸せな家庭へ怒り噴出」でした。それを読んだ一人の女性牧師が犯人と、彼をまるごと受けとめて養母となり、更生を促す一女性の愛情あふれる姿をとらえたノンフィクションです。母親となった牧師は被害者に謝罪にいくのですが、被害者からなぜ、加害者の見方をするにかと非難され続けます。養子となった子どもが罪の意識を持ち、信仰が芽生えるまでの彼女の苦しみは図り知ることが出来ません。パウロもガラテヤの信徒を子に迎えるため苦しみを経験しました。主イエスも私たちを子にするためにその命を差し出してくださり、福音がもたらされたのです。ですから、その福音から律法に戻ってしまうことは絶対に阻止しなければならないのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは律法に戻ってはいけないということです。20節に「語調を変えて話したい。」パウロはこの手紙の4章11節まで、ガラテヤの人々のことを非難、叱責していました。しかし、彼らがパウロにしてくれたことを顧みて後悔をしているようにも思えます。「あなたがたのことで途方に暮れている」とあります。この個所からパウロの正直で複雑な思いが読み取れます。すぐにでもガラテヤに飛んで行って膝をつき合わせながらじっくりと話し合いをしたいという思いとそれが出来ない事情があったのでしょう。複雑な思いが交錯した表現なのです。

Today’s Point ①神に知られている、②背後の働きも重要、③律法に戻ってはいけない

Thinking Time主の働きの動機は健全ですか。