• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年6月11日主日礼拝

説教題:「恵みと感謝~神の教会と聖徒~」聖書箇所:コリントの信徒への手紙一1章1-9節

◆挨拶と感謝  1:1 神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、 1:2 コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。 1:3 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 1:4 わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。 1:5 あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。 1:6 こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、 1:7 その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。 1:8 主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。 1:9 神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。

ハレルヤ!6月の第二主日を迎えました。今日からコリントの信徒への手紙一を講解で学びます。今日は初回ですので、先ず全体的なことからお話をします。手紙ですので「いつ、どこで、誰が、誰に、何のために」when, where who whom why書いたのかを確認しましょう。いつ?執筆年代の記述ありませんが、ガラテヤの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙と同様にAD54~57年頃と考えられています。どこで?パウロがエフェソに滞在していた時に記されたと考えられます。この手紙の16章8節を開いて見ましょう。 16:8 しかし、五旬祭まではエフェソに滞在します。誰が誰に?著者、差出人と受取人については1,2節に記述がありますので、後ほどお話をします。何故?執筆事情ですが、コリントは東西に分かれる港のある町で、エーゲ海を隔てて対峙するエフェソと共に大都市でした。コリントは多くの文化を持つ人々からの影響を受けた世俗的な街で、古くから異教の女神崇拝が行われていました。コリント教会の信徒たちの中には分派や不品行などの様々な問題があったのです。当時、「コリント風に振舞う」とは「不品行なことをする」という意味で使われていたほどです。コリント教会の信徒たちはこれらの諸問題について、パウロに相談するため使者を送ったり手紙を書いたりしたのです。同Read開きませんがそのことはこの手紙の1章11節と7章1節に記されています。パウロはそれに答える形でこの手紙を書いたのです。今朝は、1章1-9節から「恵みと感謝~神の教会と聖徒~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①主が望まれる神の教会と聖徒を目指す

1-3節から順番に見て参りましょう。1:1 神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、 1:2 コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。1:3 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。1-3節は冒頭の挨拶です。当時の手紙の様式に従って三つの要素から成り立っています。差出人「キリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネ」、受取人「コリントにある神の教会、召されて聖なる者とされた人々」、祝祷「恵みと平和が、あなたがたにあるように」です。「使徒となった」とあります。使徒とは特別の使命を帯びて遣わされた者の意味ですが、狭義においては十二使徒等のキリストの直弟子を指します。パウロは自分自身を使徒と呼ぶ事によって自分の確信を述べています。自分はキリストから直接召され、直接遣わされた者という確信です。ダマスコ途上での回心の出来事です。開きませんが、使徒言行録9章に記されています。パウロは遭えて自分自身を使徒と呼びました。コリントの教会はパウロの伝道によって建てられた教会です。この手紙の受取人が自分の語ることをよく聞いて欲しいというのがパウロの願いです。それで、使徒の権威を持ってこの手紙を書いたのです。兄弟ソステネ」とあります。パウロはソステネをもう一人の差出人として記しています。ソステネの名前は使徒言行録18章17節にありますが、同一人物かどうかは断定が出来ません。後で読まれてください。「コリントにある神の教会」とありますが、パウロは問題だらけのコリントの教会のことを「神の教会」と呼んでいます。このことはとても大事です。その理由は、教会に集う人が「至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」だからです。教会とは主イエス・キリストの十字架の血により贖われた人たちの群れなのです。ですから、今、その群れの人々がどのような状態であろうと、神はご自身の視点でキリストの十字架ゆえに聖なる者として召された人たちをご覧になるのです。カルバンは1章2節について次のように解説をしています。「この章句こそ、ぜひ銘記するに足るものである。私たちはどんな非難も、汚点も持たぬ教会を求めてはならないからであり、また、万事が自分の望みどうりでないからといって、信徒の集まりをさっそくないがしろにしたり、教会という名を剝ぎ取ってしまったりはしてはならないのでさる。(中略)完全なきよらかさがない限り、そこには教会は全然存在しないと考えるのは危険な誘惑であろう。」と。2節の「聖なる者」の部分は口語訳と新改訳では「聖徒」と訳されています。聖徒など呼ばれると恥ずかしくなるかもしれませんが、聖徒と聖者はことなります。聖者とは道徳的に立派な人間や禁欲的なきよい人達のことです。人間同士の比較、人間関係上のことです。一方、聖徒とは神との関係です。行動が立派だからではありません。この聖いという原語の元々の意味は「罪がなくなった」という意味ではありません。「別にされた」、「分離された」と言いう意味です。ですから、神の大きな愛により罪なきひとりごの御子が十字架で流された血ゆえに私たちは聖徒とされているのです。キリスト者は全て聖徒なのです。3節は祝祷です。パウロは問題だらけのコリントの教会に対しても他の教会への手紙同様祝祷をしています。教会の頭はキリストです。キリストは神のものです。程度の差はあるかもしれませんが、問題のない教会などありえません。大きな教会にも問題はありますし、小さな教会でもそうです。しかし、教会にどんな問題があろうとも全ての教会は「神の教会」です。ですから、問題をそのままにせずに、主が喜ばれる神の教会を目指そうではありませんか、また、聖徒として成長をさせて頂こうではありませんか。パウロは問題だらけのコリントの教会と聖徒を裁くためにこの手紙を記したのではないのです。主が喜ばれる神の教会と聖徒として成長を願いこの手紙を記したのです。江戸時代の初期、今の岡山県に周りに「ありがた与一兵衛」と呼ばれている方がいました。名前の由来は口癖が「はっ、有難い」だからです。朝、起きて母親、妻、こどもに会っても第一声は「はっ、有難い」です。「おはようございます」ではないのです。その理由は、「一日の初めに家族の元気な顔を見られるなど、こんなに有難いことはない」です。ある日、こどもがつまずいて膝小僧をすりむいてしまいました。その時も、「はっ、有難い」です。その理由は、「これだけの傷ですんだんだ。こんなに有難いことはない」です。またある日、馬に蹴られた時も「はっ、有難い」です。その理由は「馬にけられても無事だったのだ。このなに有難いことはない」です。「ありがた与一兵衛」ではありませんが、「感謝します」が口癖の方がいます。私が妻と婚約中のことです。当時、私はベビークリスチャンでしたが、妻は他教団の牧師でした。私と妻と一人の兄の三人でちゃんぽんを食べに行きました。会計を済ませると妻が「感謝します」と言ったので不思議でしょうがありませんでした。感謝されるのは客である私たちのはずだと思っていたからです。今は良くわかります。ありがた与一兵衛さん風に言えば「はっ、有難い、こんなに安い値段で、気持ちよく接客してくれ、美味しい物がたべられた」からです。ありがた与一兵衛さんはキリスト者ではなかったと思いますが、聖書の教えに通じるものがあります。パウロはテサロニケの信徒への手紙一で次のように述べています。5:18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。どんなことにも感謝する。そして、そのことは神が望んでおられることなのです。全てのことに感謝が出来ることは成熟したキリスト者の特徴の一つです。今日、先ず覚えて頂きたいことは主が望まれる神の教会と聖徒を目指すということです。

②恵みはキリストによる

4-9節にはパウロが感謝した6つの事項が記されています。4節から見てみましょう。1:4 わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。1:4 I thank my God always on your behalf, for the grace of God which is given you by Jesus Christ;(KJB)ガラテヤの信徒への手紙を除く全ての手紙でパウロは手紙の冒頭で感謝の言葉を述べています。「神に感謝しています」とあります。 この箇所の感謝は皮肉ではないかと思うかもしれませんが、そうではありません。感謝する相手は神です。コリントの信徒たちが自分でなしたことではありません。コリント教会の現実がどんな状態にあってもコリントの信徒たちが「キリスト・イエスによって神の恵みを受け」ていることを思うと感謝の念に堪えないのです。感謝すべき一番目のことは「神の恵み」です。キリスト教で恵みとは神からの無償プレゼントです。キリストにあって受ける価値なきものに与えられるか神の恵みです。英語では、the grace of God which is given you by Jesus Christ;です。今日、二番目に覚えて頂きことは恵みはキリストによるということです。

③感謝すべきことを見いだす

5-6節を見てみましょう。1:5 あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。1:6 こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、感謝すべきことの二番目は「キリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊か」にされているです。「言葉」と「知識」とあります。言葉とは理解したことを明確に表現する力であり、「知恵」とは理解する能力です。しかし、この「言葉」「知識」はこの世の知識や言葉ではありません。「キリストに結ばれ」たものなのです。言葉は御言葉や説教とも言え、知識は御言葉や説教を理解するためのものとも言えます。この知識を得て人生の意義は明らかになり、神には栄、人には徳を帰することが出来るのです。これから学んで参りますが、この手紙の12-14章からコリントの教会の信徒の中に言葉や知識に関係のある賜物が与えられていた人がいました。パウロはそれらの賜物を正しく用いるよう語ります。教会は人間と人間が出会う場所です。社会の縮図とも言われ、コリント教会と同様に様々な問題が起こります。それを乗り越えるのは人間的な方法ではありません。キリストを見つめ、御言葉に固くたち、御言葉を聞いて乗り越えるのです。感謝の第三は「キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなった」ことです。「証し」とは実証とも言えます。言葉と知識の賜物により、十字架に掛かったイエスが、救い主であることが証されたのです。それがコリントの信徒の中で「確かなものとなった」のです。言葉を替えて言えば、信者一人一人の心の中にキリスト信仰が確率したのです。7節を見てみましょう。1:7 その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。「わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。」とありますように感謝すべきことの四番目は再臨ついて正しく理解していたことです。テサロニケの信徒は再臨について正しく理解していませんでした。これが主な理由でパウロはテサロニケの信徒への手紙一を書いたのですが、コリントの信徒は再臨について正しく理解していたことがわかります。コリントの人々は再臨を待望していました。この手紙に記されている倫理に関する問題への実際的な勧告を読むと、パウロも再臨を待望していたのではないかと思われます。それは、古い時代が終わって新しい時代が始まるという終末的な期待の上に立ってなされているのです。8節を見てみましょう。1:8 主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。感謝すべきことの五番目は「主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます」です。「主イエス・キリストの日」とは再臨のことです。「非のうちどころのない者にしてくださいます」とありますが、神学用語で言えば聖化の完成と栄化です。人はイエスキリストを救い主と信じ受け入れた瞬間から聖霊が内に留まり始め、聖なる生活が始まります。日々、キリスト者として成長をしますが、その完成は再臨の時です。また、再臨のときに既に肉体が滅びていた人も、生きている人も二度と朽ちることなない体に変えられるのです。これが栄化です。9節を見てみましょう。1:9 神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。感謝すべきことの6番目は「主イエス・キリストとの交わりに招き入れられた」ことです。神はコリントの人を召して、御子イエス・キリストとの交わりの中に入れられました。これはキリストの受肉、十字架、復活、および昇天の意義と目的はコリントの人々のためでもあったのです。キリスト者とはキリストとの交わりの中に入れられたものなのです。これから詳しく学んで参りますが、コリントの教会には様々な問題がありました。しかし、パウロは、多くの恵みがコリント教会に与えられていることを見いだして神に感謝しつつ、この手紙の受取人に神の恵みがどんなものかを先ず、この手紙の冒頭で伝えているのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは感謝すべきことを見いだすということです。

Today’s Take-away

①主が望まれる神の教会と聖徒を目指す、②恵みはキリストによる、③感謝すべきことを見いだす

Thinking Time 

気が付いていない恵みはありませんか

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